カキツバタの播種

   

カキツバタの種。茶色いのは内皮をかぶっている種で、黒い小さい種がいくらか見えるが、内皮の中に本当の黒い種がある。この外に全体を包むさやがあった。何とか種が採種できたようだ。送ってくれた株に緑の種が付いていたのだ。本来ならこれを切り取って植えこむべきところだろうが、もったいなくて、何とか実らせてから切り取ろうと1か月そのままにして茶色くなるのを待った。茶色くなってから切り取り、しばらく完熟を待った。皮をむいて採取したのが写真の種である。これを播種してみようと考えている。どうすれば発芽がするのか。全く分からない。調べてもその方法は見あたらなかった。まずは冷蔵庫に入れて2週間冬を経験してもらった。播種して開花まで3年はかかるから、手間取りすぎるので一般的にはやらないとある。3年位何でもない。カキツバタの手前の浅い場所、水がひたひたにある辺りに播いて見た。播いてから軽く土をかけたのだが、果たしてそれが良いことなのか、悪いことなのかわからないが、ともかく自然界で起きている状態を想像してやってみた。

このあたりに播種した。

水深10センチくらいの場所にカキツバタは植えてある。植え付けたのは、6月10日である。もう2カ月近く経過したので、根付いたと言っていいのだろう。前回はすぐに枯れてしまった。心配だったのだが、ほぼ安心してよいところまで来たのではないだろうか。最初8株を植えた。一株900円だった。現在は12株になっている。来た時の葉が徐々に枯れて不安だったのだが、新しい芽が出てきている。この株を購入したのは改良園という通販の植物販売店である。すぐ枯れたので、写真を添えて連絡したら、代わりのものを送ってくれた。こんな親切なお店は初めてである。野生種のカキツバタの苗を探して見つけたお店である。そもそも原種のカキツバタはあまり売られていない。舟原溜池に植えるのであれば、野生種が良いと考えたのだ。そういうことは良くないと地球博物館の学芸員の方からは言われた。何故良くないのか意味が理解できなかった。関東では尾瀬沼にあるらしい。箱根の湿生花園にもあると書かれていた。近くでは開成町が、水路の畦畔に植えこんだというので見に行ったのだが、すべて枯れていた。南足柄のある池にも2株だけあるのだが、それほど勢いが良い風でもない。

実際のカキツバタというものを認識する以前から、燕子花図の方を知った。中学校の美術の教科書の裏表紙にあったので、尾形光琳の燕子花図が記憶の底に残ったからだ。光琳は呉服屋に生まれて、徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮東福門院と交流があったと思われる。修学院離宮を見ているかもしれない。そうした京都の文化の下地からデザインした図柄かもしれない。根津美術館に見に行った記憶がある。印刷よりもはるかに手が込んでいるのにびっくりした。同じ緑の塗り方、青の塗り方、意外に複雑なのだ。金箔をはった上から描くという手法も初めて見て驚いた記憶がある。その後こういう装飾的な絵に興味を無くしていたのだが、田んぼのめくるめく緑を魔境を見つめている内に、精神的な世界を装飾というものに置き換えて表現する意味を、最近少しだけ感じてきている。ともかく燕子花図から、カキツバタを育てたくなた。

段々その場所になじんできた。

カキツバタはそもそも田んぼの水路や溜池の野草である。江戸時代園芸品種として展開されたのだが、菖蒲やアヤメとはまた違う趣がある。特に野生種のカキツバタの素朴で強い美しさは群を抜いていると思う。何故生息地が西の方で、東の方にはないのかが不思議だ。尾瀬ヶ原には野生種があるとかかれている。という事はそれなりに高層湿原のものなのだろうか。それならなぜ、関西では平地にあるのか。どうもこのあたりが良く分からない。そもそも江戸には野生種はなかったのか。栽培品種は確かにあったようだ。それがその後菖蒲やアヤメに変わっていったようだ。舟原の溜池は元治年間にできたと言い伝えれている。修学院離宮造営の時代だ。何か時代の縁がある。カキツバタの種は8月6日カキツバタのそばに播種した。水がひたひたの場所を作り筋蒔きをした。土を種が見えないくらい被せて置いた。全く手探りの播種であるが、楽しみなことだ。舟原溜池も草刈りは何とか終わった。私が途中で終わりにしていて、涼しくなったらと思っていたら、杉山さんなのか、やってくれてあった。

 

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