映画:「万引き家族」
カンヌ映画祭で最高賞を受賞した、是枝裕和監督の「万引き家族」を見に行った。小田原のTOHOシネマである。100人ぐらいは入っていた。さすが受賞作品は違う。すぐれた作品である。心をえぐる作品である。身も心も切り刻まれるような痛い映画だ。余りに凄まじくて、直ちには言葉にならない状況にまだいる。人間が生きるというどうしようもない悲しみがにじみ出ている。心の奥の奥の方をえぐられた感アリ。見ないできたものを、さらけ出されたという感じ。まったく突如、死んだ父と母を思い出した。この年になって縋りつきたいような気持だった。悲しさは喜びよりも強く記憶に残っている。人間が存在することの悲劇性のようなもの。すごい映画だなあ。日常の中のドフトエフスキーか。日本にはこんなにもすごい映画人がいるのだ。日本という社会の上滑りな実相の裏側にこんな地獄の世界がある。どうしようもない人間の生きること。どこまで行ってもあの嘘で塗り固められているアベ政権を支持する、日本人というどうしようもない現実までもが重なり合う。
悪の意味を実感させられる。人間というものが引きづっている、悪。少年の中に芽生える、正義の意味。命に代えられる正義などあるのだろうか。正義を飲み込むこの不安定社会の暗闇は底なしである。意味なくわが子をいたぶってしまう人間の意味。わが子を苛め抜くような人間の歪みはどこから生まれるのか。人間本来の病気なのか。社会の病なのか。歪み始めた人間は何処に行くのか。幸せな家庭は軒先から焔が揚がっている。卑劣と呼ぶしかない幸福がある。全ぶ嘘なんだ。嘘だったんだ。人間の奥底に横たわる、暗い焔。暗ければ暗いほど、燃えが揚がる幸せ感の不安定な世界。命というもののどうしようもなさ。心はいつも道を探し、道に迷い、止まる。動けない命。それでも這いずり回る命。子供という一人では生きられない命の哀れさ、悲しさ。どうしようもなさ。この話はまぎれもなく私のことであるという耐えがたい痛さ。卑劣な人間の真実。きれいごとの表面性が脱ぎ取られる。
この映画がフランスで評価された意味をかみしめる。フランスは映画国である。学生は文学のように映画を語る。日本の昔の学生が文学青年であったように、フランスでは映画青年がいる。映画の芸術性、文化性が高く評価される。この日本の病巣のような複雑な映画が、フランスで評価されたことに驚きがある。世界の映画人の見識。フランスの文化レベルの高さ。アンドレマルローが日本美術を理解できたように、フランスの評論文化の深い思想を思う。受け止める文化があるからこそ、この理解しがたい日本社会の特異性を理解しえたのだ。犯罪というものを通して家族を描く意味。万引きをしながらしか生きることのできなかった家族の幸せ感はあまりにも悲しいだろう。万引きした飴が甘いわけがない。苦い飴を幸せとする、悲しい虚構。万引き家族は、思いの家族である。血族ではなく、気持ちで仮想される家族。疑似的家族にフキ寄せられる下層社会。下層であるが故の生きる日々の生々しさ。傷を刻み付けながらしか生きられない苦界浄土。痛みが故の救い。分断された社会。階層化され上昇のできない絶望の社会。
社会のシステムが完全に無意味化している。児童相談所の現実遊離。警察を代表する社会と言う法律に準拠する社会の陳腐化。児童虐待防止のキャンペーンが行われている。日本では毎日一人の子供が虐待で死亡している。この目をそむけたくなるような事実に向かい合う必要がある。子供はどれほどの虐待を受けても、本能的にその親に助けを求める。まさに地獄である。それを防ぐことのできない病んだ社会がある。競争主義に踏みにじられる人間性。敗れるたものに待っている地獄。子供をいじめること以外にはけ口のない病んだ親。その病んだ親をどうにもできない社会。児童相談所の職員を今すぐ倍にするくらいのことは、出来るはずだ。待機児童などいない社会を今すぐ作れるはずだ。日本は虐待防止予算の対GDP比ではドイツの10分の1だそうだ。アメリカの130分の1だそうだ。国際競争力の前にやることがある。日本の危機は、日本社会が危機的状況にあるという事に気づかないところにある。