若い人の生きづらさ
若い頃に死にたくなったことは何度かあった。ただ、私の若い頃の時代はまだ混沌とした中に、希望が未来に光っているような気分があった。その根拠のない楽天的空気で助かった。今の時代はどこか閉鎖されている重さがある。ダメなものが入り込む隙間が年々小さくなっている。1960年代にはカニ族と呼ばれるような、無銭旅行の流行というようなものがあった。大きなキスリングを背負って無一文で旅に出るというような中に、何かが待っているような社会的雰囲気があった。私は自転車であちこちに出かけた。まだ中学生であったのに、松本、名古屋と自転車で行った。旅の途中に警察や小学校に泊めてもらったことさえあった。今そんなことが考えられるだろうか。放浪に憧れるという文化があり、それを受け入れる社会があったのかもしれない。古い時代にあった、文化というものが遠くの異国からの放浪者によってもたらされた記憶。若者に対する緩やかさ。ダメでも、外れても、何とかなる。同じでないものも生きる道はある。戦後から70年代までは若者が夢を持つことが許されていた気がする。
海老名で連続9名が殺害された、前代未聞の異常な事件が起きた。不気味なことにこの信じられないような事件が、自殺願望の若い女性が誘い出されてしまって起きたという事だ。毎週一人が連続で殺害されてゆくというようなことがなぜ起きたのかである。SNSとかラインと言われるが、使ったこともないのでよく分からない。ともかく、若い人が良く使うネットの連絡方法らしい。無料アプリというものがあり、それを利用して、不特定多数の人と、情報を共有できるらしい。政治家などもこれを利用して選挙運動をしているという話を聞いたことがある。18歳選挙権という事でそういう事があるようだ。「猫の鼻炎について教えてください。」というので対応したら宗教勧誘だったという話を聞いたことある。相談に乗ってやるも危ないし、相談に乗ってくださいも危ない。背景の見えない人と、自分の命に関するような重大なことを相談するSNSというもの。SNSになら本音を語れるという若者たちの哀れ。若者とのつながりはSNSが一番のようだから、若者の緊急救援対応にSNSを使うことになったとテレビでは流れていた。
社会が夢が持てない。競争に負けるものの自己責任社会。社会の窮屈が若者が死にたくなる背景にある。個々の思いは様々であろうが、ダメなものや、力も能力もない若者でも、どこかに夢を持つことが出来そうな空気が、社会には残っていなければならない。ダメでもいいじゃん。人に勝たなくてもいいという思想が、競争を無くすので良くないとされる。ダメでもいいじゃん。ダメだからいいじゃん。私はいつもこう自分につぶやいている。絵を描くというのは常に失敗である。良く描けたと思うことなどまずない。またダメだの続きの中でやらなければならない。セザンヌだって、ゴッホだって、マチスだって、みんなヘタのダメだ。ところがそのダメだからこそ、本質に至れた。そしてダメだと躓いた人を感動させ、救済している。ゴッホはダメだと思い込んだまま自殺してしまったが。自殺したくなった人をどれだけ救済していることか。もし自殺したい気分の人がいたら、ゴッホの絵を見てみることだ。新宿のビルの中に向日葵がある。見てからでも死ぬのでも遅くはない。それで思いとどまったという人を2人知っている。
絵を描くという事はダメであることに耐えるというようなものだ。その点何十年の年月にずいぶん鍛えられた。自分に至るという事はそういうダメに直面するという事から始まる。ダメだと思わないような人間は、付き合いたくないものだ。 ああ今日も失敗である。良くなりそうだとかすかに思うところを、わざわざダメにして行く繰り返しである。あえて書けば、ダメであることを、ダメであるまま示そうというのが絵である。良さそうに描くなど、絵ではない。だから絵を描いて居れば、結構鉄面皮で生きられるようになる。上手そうな得意げな絵を見たら、絵の分からんチンと思う事にとして置けばいい。ダメのダメダメと負け続けても、愉快に生きる世界は広がっている。絶望は希望への道ともいわれる。せっかく絶望したのなら、その絶望が財産になると思えばいい。絶望を知らない奴よりよほどましな人間になれる可能性があると思っている。