絵画を言葉化する意味
絵を言葉化しなければ進むことはできないと考えている。それは「絵を語る会」という形で実践している。冬季オリンピックで言葉化するという事を口にした選手が二人いた。一人はフィギュアスケートの羽生選手である。もう一人はハーフパイプの平野歩夢選手である。二人ともオリンピックを控えて、大けがをした。オリンピックの出場すら危ういと言われた。歩くことすらできない大けがである。身体を動かす練習もできないなか、技を言葉化していたという。一度できなくなった運動をもう一度取り戻すためには、言葉化する必要があったようだ。この二人はまさにスポーツの天才であろう。生まれついてすばらしい感覚を備えていたはずだ。4回転をする為に言葉化する必要はなかったという。運動の感覚で、持って生まれた感性で回転の感覚をつかみ磨いた。想像もできないほどの練習の末にその感覚が技として実現したのであろう。ところがこうした天性の感覚の二人が、技を言葉化することが大切だと揃って口にしていた。
高校の頃陸上競技をやっていた。インターハイ東京予選初戦敗退の弱小選手である。そのころ読んだ本に、棒高跳びの選手は知能指数が高くないと一流には成れないと書いてある陸上競技の指導書があった。空中での自分の姿勢を理解し、練習をして行くためには、高い知能指数が必要というのだ。長距離グループでただ走るばかりの自分は少し馬鹿にされたような気がした。走り高跳びは練習していたので、空中姿勢というものを理解するという事が、かなり難しいという事は知っていた。自分の運動を言葉化するなどという事は、考えたこともなかった。ひたすら体に覚え込ませる反復練習であった。何が悪いかを理解するという事は感覚だけでは難しい。問題を理解して、何を身に付ければ解決できるのかという事を分からなければならない。分かったうえで練習をしなければ、練習すらできないことになる。もちろんオリンピックでメダルを争うような人とは領域は違うと思うが、二人のすごい選手が感覚だけではだめだと主張していることが印象的だった。身体が充分に動かせない期間、技を言葉化していたというのだ。それが復活するカギになる。感覚の天才が、一度できなくなった技をもう一度再現するためには言葉化が必要だった。
絵を描くという事はまさに感性の仕事である。ほぼ百人のうち百人がつべこべ理屈を述べずに描けばいい。感覚がだめな奴だから、屁理屈で誤魔化すと主張する。私のようにあれこれ理屈を述べる奴は感覚が悪くて絵が分からない奴だからだという事になる。絵というものがお稽古ごとの先にあるものだと考えればその通りであろう。上手になるだけで良いのであれば、黙って職人仕事を磨けばいい。それをあえて描いているだけではだめだというのだから、顰蹙を買うのも仕方がないかもしれない。分からないで無暗に描いていることは、むしろ自分の絵をダメにすると思っている。ただただ描いていても悪くなるだけという絵描きばかりを見てきた。そういう人に限って口にする絵画論が精神論だったりする。そうしてマンネリの、ただみすぼらしい技術が示されているだけというの絵は、絵のように見えるものに過ぎない。公募展というものを見に行けば、ズラリとそういう絵が自慢げに並んでいる。
絵画の世界は、言葉を拒絶することで進歩を失った。この時代に即した美術評論というものがない。芸術と思想は連動している。言葉で絵画を分析し批判し、評価する文化自体が失われた。今もそれらしき絵画評論をうたう月刊誌が発行されているが、趣味で絵を描いている人や絵を販売したがる人に、その雑誌を定期購読してもらうことで経営を成り立たせている雑誌だ。絵を雑誌に掲載し、誉め言葉を書くというものに過ぎない。本当に恥ずかしい状況の絵画世界だ。自分の絵を言葉化するという事をこのブログでは繰り返し行っている。とりとめもない、恥ずかしいような陳腐なものかもしれない。しかし、それが自分のすべてである。人と較べてではない。自分の絵画世界を少しでも進めるためには、言葉化する以外にないと確信する。この絵は好きだとか、嫌いだとか、そんな判断で済ませていては、絵を描く人間とは言えないのだ。