日本国はどこを目指すのか
アベ政権が目指している世界は、アメリカのような世界なのだろう。経済が一番の国である。トランプアメリカのやり方がモデルになるのだろう。アメリカで仕事をしていた、安倍さんはアメリカにあこがれたのかもしれない。豊かな国アメリカ。正義の国アメリカ。世界一の経済大国。自由主義、能力主義、競争主義の国。アメリカンドリームの国。確かにアメリカには底抜けの善良がある。宗教的倫理といえるような価値観がある。それは、大草原の小さな家のローラの夢のようなものだ。その理想が高ければ高いほど、一方に極端な差別思想が潜んでいる。賄賂の国中国で孔子思想が息づいているのと同じなのではないだろうか。戦後の日本はアメリカをモデルとして国づくりをした。あるいはさせられた。アメリカの中の善良な思想が日本国憲法に結実したのだろう。しかし、アメリカのなかの本音は、自分が勝者になるために羽手段を選ぶ必要はないというものだった。しかし、日本政府はそのアメリカの暗い本音を、国民に対し覆い隠しながら、まるで傀儡政権のようにふるまってきた。
1980年ごろの日本社会では盛んに価値観の喪失という事が言われた。戦後の復興期には明治政府が模索した大日本帝国の方角が間違っていたという事は、一億総懺悔として認識せざる得なかった。どこを目指すのかを見失った日本はアメリカの底抜けに明るい、自由主義に目標を定めた。その競争主義の負の側面には目を向けるどころではなかったのだろう。ともかく復興して敗北から立ち直らなければならなかった。日本民族は全面敗北をしたが、今度は経済で追いつき追い越せで行かなければならない。そして、日本人としての歴史的な価値意識を棚上げしておくことにした。武士道よりもトランジスターラジオのセイルスマンである。武力主義より、経済主義の方が平和で良い。今度は経済で勝つという希望が、反省の結果である。日本が何を目指すのかは問題にもされないまま、経済競争にまい進した。そのころの日本人の中にはまだ伝統的価値観が色濃く残っていた。
封建主義とか、地域主義とか、伝統的価値観を維持しながら生きている人がまだたくさんいた。農家であれば、先祖伝来の田畑を守ることが自分の役割と考える人が沢山いた。その生き方の原型は江戸時代のお家大事だろう。そうした日本人としてといえば、ほぼ共通理解が出来るような日本国を空想することが可能だった。その日本社会の共通の価値観がすれ違い始めたのが、80年代頃ではなかったか。首都圏への人口の集中によって、伝統を引きずらない新たな家族個人主義的日本人が登場する。しかし、その頃の日本人はまだ帰ろうとする故郷を持っていた。どこか今の自分の暮らしではないところに、本当の暮らしがあるような喪失感である。その喪失感の背景にあったものは失われてゆく日本的伝統文化なのだろう。故郷の光景というものが存在したのだろう。
アメリカのような社会に日本が成ってほしくはない。アメリカは確かに経済は豊かではある。しかし、銃を若者が乱射するようなことが頻発する社会である。にもかかわらず銃の規制には向かわない国である。銃を持って対抗すればいいというような、馬鹿げた国である。この愚劣な国を手本としてアベ政権は存在する。そのことは日本人のかなりの人々がアメリカの愚劣さを含めて、受け入れているとしなければならない。沖縄の米軍の態度を見れば、安倍氏の抗議などまったく効果がない。トランプに電話で直接抗議したと力んでいたが、何の意味もなさなかった。アメリカは日本の犠牲は、核の傘を貸してやっているのだから、当然の負担としか考えていないのだ。そしてアベ政権は沖縄の犠牲は、日本全体の為には止む得ないとしか考えないのだ。日本がどこを目指すのかだ。日本は美しい瑞穂の国を目指すとした。昔の安倍