支持率に一喜一憂しない
菅官房長官は常々支持率に一喜一憂しないと述べていた。これは大切な姿勢だ。政治を行うにあたり大切な心構えであろう。ところが、今回の内閣改造では、支持率の挽回という事が言われた。そして仕事人内閣のはずが、何もしないで解散してしまった。安倍政権は支持率が持ち直せば、また前のようにやりたい放題、傲慢に忖度政治を続けるつもりという事を意味しているとしか思えない。国民は絶対に支持を戻してはならない。支持率を低空飛行させ、国民の顔色に従って政治をさせなければならない。いまだ加計学園については、丁寧な説明などない。森友払い下げ問題も、すべてを破棄して記録にないままである。防衛省と自衛隊の関係など、国民には少しも明らかにされた感がない。口先だけでなく本当にこういうことをはっきりさせるには、支持率のさらなる低下以外にない。世論重視の政治だ。それが一歩間違えば、大衆迎合主義、ポピュリズム政治という事なのかもしれない。言い方を変えればアベ一座が気にしているのは客の入りである。投げ銭の多寡である。こういう一座に演目を変えさせるには、客の入りで示すしかわからないという事のようだ。
これが芸術志向の一座であれば、その場の大衆の評判よりも、芸術の神様の評価の問題になるのだろう。政治は大衆演劇の一種のようだ。テレビで評判の俳句名人6段の、かつては下町の玉三郎と言われた男の素顔はご存知の通り、普通のおじさんである。あの人の俳句は私はそれほど好きではない。話は寄り道だが、俳句のエンターティメント化はなかなか面白い。夏井先生の口ぎたなさがまたきわどく面白い。さすがの言葉のプロである。芥川賞作家の俳句が凡人とか言われるのが面白いのだろう。しかし、夏井先生の評価にも納得いかないことは誰にでもあるだろう。直してダメにした俳句も数知れず。江戸時代では「亀戸天神で、誰それの俳句の会があるよ。」というのが催し物になっていたようだ。一晩にいくつ作れるかのギネス大会のようなものがあったという。もちろん絵の方でも一晩で何枚描いて見せるとかやっていた。巨大な絵を描く見世物もあった。それにしてもテレビの多摩美の水彩画の先生はひどい。水彩画というものを誤解させるばかりだ。あれは水彩画とは到底言えない。あの類の塗り絵を水彩画と言われたのでは、話にならない。話が脱線した。
評価というのは怖いものだ。褒め殺しという言葉が以前はやったが、けなされるより褒められる方が危険なことは確かだ。褒められてダメになった絵描きを数多く見てきた。ポピュラリズムが世界を覆い始めている。敵を作ることで、論理を越えてしまう。悪いのは中国だ。と言い切り人気を得る。そのことで、アメリカの問題点が見えなくなる。中国とアメリカの悪さはまた別問題である。アベ政権がアメリカのケチをつけるのは唯一憲法を押し付けたという、お得意のイメージ操作だけだ。アメリカが憲法を押し付け、憲法の是非の国民投票もしなかったというのが、自民党の主張だ。当時国民投票をしていれば、70%の支持はあったはずだ。国民は新憲法に民主主義の夢を見たのだ。新憲法に国民は期待した。軍国主義国家から、民主主義国家への転換に戦争に懲りた国民は期待した。憲法の意味は誰が作ったかより、日本にとって有益な憲法であるかどうかである。それは支持率と関係がない。国民一人ひとりが繰り返し考えるべき課題だ。
アベ政治と支持率であった。今回の内閣改造で、野田聖子氏と河野太郎氏が入閣した。河野太郎氏は今のところ言いたいことも言わない。この人は部外者であるときは自由にものをいうが、取り込まれると実につまらない。野田氏は言いたい放題である。河野氏は真価を問われている。ここで安倍氏とその背景にあるものを忖度するようでは、期待できる総理大臣にはなれないだろう。河野氏は自分の考えを表明しなければならない。内閣の一員であろうとも、自分の考えを表明してもいいはずだ。それができる力がないようなら、今後の河野氏に期待しない方が良い。中国を批判するのもいいが、アメリカのオスプレーに言及もできないようでは、失格であろう。相手が嫌がることも言うべき時はある。この二人の新人役者の登場分が一時の支持率の回復分なのだ。河野氏には期待をしている。ここは逆手にとって日本外交を引っ張ってやるぐらいの力を見せてもらいたいものだ。と考えている内に、仕事なしで解散になった。おかしなアベ一座だ。