森友学園の危険

   

森友学園の教育方針と自民党憲法の方角は同じだ。だから、森友学園は寄付金を集める際に安倍晋三記念小学校と名乗ったのだ。少なくとも森友学園ではそういう認識で自民党を通して、小学校の設立の協力を求めた。こうした動きの中で大阪府の橋下知事は安倍晋三氏と繋がりを深めたのだろう。自民党憲法が成立すれば、公立小学校で、教育勅語が朝礼で暗唱させられるようになる。これは憶測でも、妄想でもない。もちろん教育勅語の最新版ができるのだ。小田原にも子供に唱えさせる「小田原っ子の約束」というものがある。あれを見るといつもがっかりする。何故あんな標語が長年掲げられ、止めようという声が出ないのだろう。差別ジャンパーと同じ、同調圧力の事例である。標語で子供を指導するというようなやり方が間違っている。標語で示される正しさは、その反面を切り捨てることになる。教育者とか、政治家という人達は、そういう分かりやすい一面的な指導法が好きな類なのだ。

もちろん教育勅語も、おだわらっ子の約束も、一つの考え方である。全面否定するわけではない。大人の都合の良い、または大人が正しいと考える方向である。一部の私立の小学校でそれを教育するのは間違ってはいない。ただし、それを選択の余地のない公立の学校の標語にして掲げて、唱和させるようなやり方は間違っている。森友学園の愛国心教育を安倍昭恵夫人は絶賛していた。その園児の規律正しさに感激したそうだ。夫の安倍晋三氏が首領様になる夢を描いたのだろうか。子供たちには自由な感性を育てなければならない。規律などその為には少々犠牲になってもいい。規律を求める愛国心は、敵を必要とする狭い愛国心だ。アベ政権がまるでネトウヨのように中国を敵視するのは、狭い、驚くほど狭い愛国心しか持てないからである。本来の愛というものは、敵を必要としないほどおおらかなものだ。

東大生とサンマやお笑いタレントが出て、東大生の変わり者的面白さを強調するテレビ番組を見た、実に面白かった。お笑いタレントは現代社会きっての優れた人たちだと思う。そして、東大生というものは、現代の学校教育の目指す価値観である。東大に入れれば、後のことは一応置いておいてという事になる。ここには、人並み外れた努力家もいれば、生まれついて何でも覚えてしまうような特殊な人間もいる。この現代社会の実相を浮き彫りにしていて、惹きつけられた。テレビタレントというジャンルがあるように、東大生というジャンルがある。どちらも才能と、努力と、幸運で、すさまじい競争の中で選抜された存在である。しかも、それは一つの過程であり、タレントになれば、成ったでうつ病に追い込まれるような過激な競争社会である。しかし、誰もブラック分野だとは言わない。東大入試勉強で何時間勉強しても、勝手なことである。むしろ讃えられるのであろう。

やりたいことをやりたい放題やる。これは人間として尊いことだ。類まれなことだ。知っておかなければならないことは、やりたいことを知ることが難しい。何が本当にやりたいことかを知るというのは、人生の目標のようなものだ。子供を大人の都合の良い型にはめ込むのは間違っている。人間としての矩を超えなければ、自由が一番である。何時に起きようがそれぞれの自由である。3年寝たろうだろうが構わない。それぞれの生き方である。寝ていることに自覚があるかないかだ。他人から見て自堕落であろうが、そんなことはその人の人生である。大人がまともに生きていれば、子供は見て学ぶものだ。まず大人がきちっとその人の人生を生きることだろう。肝心要は親だ。親がどこかおかしければ教育など成り立たない。教師がおかしければ教育など成り立たない。社会がおかしければ教育など成り立たない。競争社会という中で、競争に勝つという事だけを価値としているために、今の時代の教育はゆがんでいる。

自民党は競争に勝ち抜く国にしようとしている。その為に敵を必要とする憲法を変えようとしている。森友学園がゆがんでいるように見えても、森友学園の子供たちの東大入学率が桁外れに良ければ、そこに入れようという親はいるだろう。問題は能力主義にある。東大生とサンマのテレビが面白かったのはそこのところだ。勝ち抜いたエリートが違う側面から見れば、自分と変わらないただの人間であるという事だ。普通に生きている競争には向かなかった自分と人間の価値は何も変わらない。この自覚ではないだろうか。ダメでもいいじゃん。ダメなりにやればいい。朝起きれないから即ダメではない。やりたいことが見つかれば、起き出すつもりだ。やりたいこと、すきなことの発見こそ大切なこと。人間を信じるところに教育はあるはずだ。だから、教育は朝起きろと標語を掲げるのでなく、朝起きたくなるようなきっかけを作ってあげることだ。そして大人が一緒に起きて活動することだ。

 

 

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