水彩画の技法
水彩画は絵の具を水で薄めて使う。紙の白さを生かしながら色に輝くを持たせる。同じ色でも水の薄める量で色が変わる。薄める方向では色は無限というほどに変化してゆく。しかし濃度を濃く使おうとした場合、紙の白さが色に反映しないために、暗さを増して、その絵具の色を発色することができない。油彩絵の具に比べて一番、使いずらいてんである。油彩画は乾いても顔料は油に包まれて発色している。コバルトブルーであれば、絵の具そのままに塗ってコバルトブルーの色見本のような色が出る。ところが水彩絵具を水に溶かずにそのまま塗ったとしても、乾いた段階では黒ずんでしまい、絵の具のラベルに印刷されているような色は出ない。そのために、コバルトブルーそのままの空を描きたいという希望は、実現が難しいということになる。コバルトグリーンの海の色といっても同じように実現できない。つまり、頭の中にあるエーゲ海の色や、コートダジュールの空の色は、水彩画では実現が難しいということになる。
ところがいま目の前にある現実は、憧れの世界ではなく、現実の生きている世界である。この世界には、いわゆる色見本の絵の具の色で出来てはいない。石垣の空の色も、広がる海の色も、何色とは言い難いものである。この何色とは名付けがたいものが現実世界である。描くということは世界を画面上に置き換えるということである。だから、水墨画のような無彩色のほうが実は自分の世界に近いということが起こる。水墨画に色彩を感じるというような頭の中の操作が言われるのは、絵があくまで観念的なものであるからだ。水彩画は水墨画や油彩画のような観念的な世界のものではないと、私は感じている。実に目の前にある世界は水彩画のような、何色とも言い難い色で存在している。つまり、現実の日本の自然にリアリストとして接すると、水彩画以外では描くことができないと私には思える。
私だけのことではなく、たぶんリアリストであればそう感ずるはずだと思っている。もちろん絵を描いているのであるから、どれだけ観念的であろうとかまわないし、むしろそれが一般的と考えたほうがいいのだろう。中国画では目の前の世界を描くのではなく、観念の中の世界を描くものを絵と考えていた。だから写生画というものは存在しがたいものだった。絵の目的によって画材が違ってくるということになる。中国画では水墨というものが基本である。観念の世界を表すためには、現実的な色彩をまず除くことが必要だった。書画一如。その水墨の上にとってつけたような色彩が、塗り絵のように着色されるようなことになりがちである。日本画では絵の具そのものの色で、顔料を大きくして色を置き換えようと考えたのが、明治以降の考え方だろう。油彩画の影響だと思う。これも観念的な絵の世界を構築し、操作したいという結果だろう。
水彩画は曖昧模糊とした現前の世界を、不可思議なままにとらえることに向いている。世界はそれほど明瞭なものではない。常に動き変化し続けている。風の流れ、自然のにおい。太陽の位置。変化の中の一瞬をとらえるのが水彩画である。えもいわれぬ現実世界の色を、薄い色を塗り重ねることで出してゆく。色彩のある水墨画でもある。同時に、筆触によって、作者の行為を示す。筆跡は書と同じである。描き方で描く人の個別の世界観を残す。筆跡を残さない手法はどれも、作者を感じさせないことを目的にしている。書で言えば、代書屋の筆跡であり、活字のプリントアウトである。作者の見方を示すのが私絵画である以上、筆触は重要な要素になる。薄い塗り重ねと、自分の見方を伝える筆触。これが水彩画だと考えている。