第18回水彩人展作品評 3

   

今回5名の同人推挙があった。同人が水彩人の水彩画として、評価した作品である。私個人が考えた、水彩人の水彩画だと考える人の絵は他にもある。昨日書いた一般の人8名もそうである。絵の評価とは難しいと思う場面である。ただ、水彩人はいわゆる良い絵を選んでいる訳ではない。水彩人の設立の宣言にあるように、絵画の行き詰まりを、水彩画の素朴な表現に立ち返ることで、突破しようと集まった仲間だ。同志的グループ展が本質にある。普通の公募展とは異なる。18回目を迎え新たに5名の同人を迎えた。これは水彩人の歴史に於いて初めてのことだ。公募展にした結果、こういう素晴らしいことが起きた。昨日も書いたように、水彩人は新しい地平に立ったという事なのだろう。

会員の中で私が良いと感じた絵を書いておく。あくまで笹村個人の感想であり、水彩人全体の意見という訳ではない。ブログで書くとそういう誤解が生じて、問題もない訳ではないが、それでもこういう形でそれぞれの意見を残すことも意味はあると思っている。

千葉雄一郎「アジサイ」「伊勢エビ」「両親」陽気な絵である。一見、極楽とんぼの絵である。陽気な色彩が光を放っている。明るすぎるこの表層の奥にある、心の透明なことが悲しいほどである。伺える不安な空気の陰り。どれほど明るく、気楽に描こうともぬぐえない何かが底光りする世界。人間存在が画面にかすめる。余りに何げなく陽気なだけに、不思議な感を受ける。次の絵を是非とも見たい気になる人だ。

 鈴木秀雄「渓流・淵」「渓流・夏」「神無月の朝」確かにうまい絵である。悪く言えば水彩画的な上手さが目立つ絵である。水の表現の巧みさに舌を巻くほどである。しかし、上手さだけでない何かがこの絵にはある。描写の魅力というものだろうか。写し取る喜びというものが溢れている。この描写によって水の精霊まで描ければと思う。沸き出でる水の尊さというものに繋がっているような気がするのだが。描写技術というものが、心のどのあたりにまで、迫れるものなのか注目である。

昆野朋代「夏の菜園」「惜春」「ゆく秋」完成した心の世界がある。精神の透明感。見るという事が、物の実相を見るという事にまで迫ってきた。実相を見るという事は決して、深刻でも、大上段でもないという事だろう。昨年求めたものが絵の完成であるとすれば、天上界である。ことしは、自分の庭先の現実の世界に、調和を見ようとしている。一見画面は同じようであるが、描き方は動き出している。この変化はどこに行くのだろうか。興味津々である。

高木玲子「ユリのあるテーブル」「収穫」「アジサイのある窓辺」色の美しい絵だ。美しいという事が、実は大変なことだとわかる。水彩による静物画の一つの典型なのかもしれない。美というものは、一つの思想なのだと思う。時代の美というものがある。現代社会における美。美として表現されたものの奥に有るものを考えてみなければ、絵は分からない。ただ美しいものを描こうというものでは、その美しいは観念で終わる。その先の美というものを感じさせた絵だ。

真壁良子「盛夏」「野原」「摘み草」視覚の世界の調和ではないだろうか。空気と色彩が草原という場で、光交わり輝く。光というものが絵のすべてであると教えてくれる。色が光として放たれている。ここにある透明な世界は、他にない純化を見せている。透き通る素直な目。

西凉子「白い時」「四葉のクローバー」「坂道」ある種の難渋な思いが満ちている。一筋縄ではないかないただならぬ世界。共感より告発。独特の世界観の形成が始まっている。困難な世界のドアを開けたような気がした。私はどこから来て、何処へ行くのか。絵がそういうことを語っていた。

金田勝則「森の小道」「牧草地へ」「柏林の休息」暗く辛い絵である。北海道の深刻な水害を思い起こさざる得ない。今年だけではない開拓の厳しさ。それにしても日本の自然は厳しい。その過酷な自然を前にして、愕然としている開拓民の心といえばいいのだろうか。森の中の道を歩む自分を想像して、もらい泣きした。この厳しさの先にある希望に道は繋がっているのだろうか

 

 

 

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