絵を描いてきたと思う。
人間は必ず死ぬ。どうせ衰え人間性を失い消えてゆくのだから、何をやったところで大したことはないだろう。立派な業績を残した人の衰えてゆく姿を見て、思うところがあったのかもしれない。老人医療をやられている先輩が言った。それも間違いではないと私も思う。ただ、人間なぞ大したことはないと考えたうえで、どうせ大したことはないを出発点にする。自分がこの後何をするかはまたべつのことではないだろうか。人間という総体はさしたることはないとしても、一人の生命にとって、私という自己存在ほど意味あるものはない。私自身は自分の生命を突き詰めたいと思っている。人間が大したことがないという考えはおおよそ、地球なぞ大したことはないという事になる。宇宙というようなものを考えれば、地球なぞ小さなものだ。その小さな地球のほんの一瞬に登場して、消えてゆくのが人間である。それでも私という命の命の何たるかは可能な限り味わってみたいものだ。
絵を描いて居ると、前より少し絵がわかるときがある。分かったのか、判断がおかしくなったのかは微妙なところではあるが、較べてみると前より一歩進んだと思える眼前の絵がある。絵を描くという事はやはり指標である。私絵画という指標である。絵描きは大体若い内が良くて、だんだん絵が悪くなる。それが普通のことだ。絵画は感覚的要素が大きいから、人間の感性は20歳くらいにピークを迎える。その後はだいたい感性は衰える。しかし、知性の方は蓄積が出来るので、人によってはこの後も成長をする。知性と感性の両方の綜合された人間の限界が50歳位いだろう。これが普通の人だ。ところが絵を描く人で、そうした枠で考えられない、晩年ほど良くなる人がいる。70で死んで、その後の絵が無かったら誰にも知られなかったという人がたまにいる。こういう人が1世紀に1人くらいいる。このような天才を事例にして、50過ぎても自分の絵が良くなると思い込みたがるのが普通の人間である。私も同類である。
頑張れば、自分だって100メートル10秒を切れると思うのはおかしいだろう。死んでみて絵を時系列で見れば一目瞭然である。だんだん良くなるのは天才だけである。同じ領域を保っているのは異常なほどの努力家である。悪くなって普通人である。木鼓を作っていると、前より良くなったり悪くなったりが実に明らだ。工芸的なモノづくりはだいたいそうだろう。だから、死ぬまで努力をすることになる。死ぬ間際になって名人という事が割合に多い。工芸はそういう努力の甲斐がある世界のようだ。ところが絵は良くなっているのか悪くなっているのかがわかりにくい。本人にはわからない可能性の方が高い。私もそうなのだと思わなくてはならない。だから、出来る限り客観的に見れるように、自分の作品の展示室を作った。最善の状態で、冷静に比較できるようにした。分かりやすいように人の作品も並べてある。天才でないのは明白だし、さしたる努力家でもない。
となるとやはり衰退の中で絵を描いて居る可能性は高い。それでも、衰退しながらもその時の実相を描くことが私絵画のやり方でもある。衰退は絵ではなく自分の人間のことだ。そういう自分というものの哀れさ、醜さとも向かい合い描いてみる。1986年37歳の時にいわゆる画家になることは辞めた。というか、諦めざる得なかった。山北の山中に移り、新たに絵を描き続ける道を見つけてきた。自分の生きているという事をすべて入れ替えるためには、食べているものをすべて入れ替えて、肉体の成り立ちを変えようと思った。山の中で開墾し自給自足して自分を作り直そうとした。そうして絵を描くことを自分なりに見つけた。心がけていることは、畑をやるときには絵を描くように、絵を描くときには畑をやるように。私絵画の道である。人と較べない。絵を商品にはしない。絵を生活の糧にしない。自分の研究のため以外には作品の発表はしない。研究の為に良い仲間を見つけ、互いに研鑽してきた。