宮沢賢治37歳死去
宮沢賢治は37歳で死んだ。今あらためて読んでみると、その輝きが増してきている。それは賢治の理想の方角にある。自然と一体化した自給自足の暮らしのなかに幸せな生き方がある。自然から離れ、競争に翻弄される暮らしには幸せはないという悟りである。羅須地人協会というものをやっている。花巻農学校の教師を退職して、小さな自給生活をする農民として生きようとして始めたものだ。つまり、手帳のメモに残された「雨にも負けず」のデクノボウの暮らしの実践である。農業を学び、普及し、暮らしに根差した芸術の展開を模索する。ここで理想を求めて生きて、残念ながら病を得て挫折する。賢治の生きた昭和初期の岩手の暮らしの厳しさは、たぶん日本人が体験した最も悲惨な時代ではないだろうか。日本帝国政府の軍国主義への傾斜が、徹底して農民を痛み付ける。このさんざんな状況が、棄民政策ともいえる移民政策、満蒙開拓や、日中戦争への泥沼に向かわせることになる。
最近経済不況が第2次世界大戦に向った原因という説、もっともらしく唱える人がいる。悪質な間違えだ。帝国主義のゆきづまり、軍事拡張への無謀な偏りが不況を招いた。今の日本の状況も、こうした悲惨が近づいている。このくらい不安の中で、光として宮沢賢治の目指す方角が指し示すことに気づかされる。宮沢賢治的世界しか、地球と人類を救えないという希望である。森鴎外や漱石が忘れ去られてゆく中で、賢治に注目が集まってゆくのは時代の必然であろう。賢治は日々の小さな農業の技術に着目している。農民を救済できるのは農業技術だと考えた。農業はその技術で全く違ってくる。技術があれば乗り越えられる冷害もある。技術があれば、半分の労力で倍の収穫を得ることができる。賢治は土壌学、作物学、肥料学に着目している。小さな農家が日々の努力で少しづつ暮らしを良くすることができる道を模索し、実践しようとしたのが羅須地人協会である。
私は賢治のような理想をもって開墾生活に入った訳ではない。絵描きになるという競争から離脱して、生涯絵の描ければそれでいいと覚悟し東京を離れた。自分を革新するために自給生活を模索しようとした。食べるものさえあれば何とかなると考えた。食べるものを自分の手で作り、自分の身体と心を革新しようとした。競争の中にいる自分を自己否定するためには、その道しかなかった。競争から離れて自己探求の道を模索した。理屈を捨てて、身体を作る食べ物から自分の手で作り、自己改革を目指した。その結果自給生活の技術というものの重要さを知った。母は山梨の山の中の寺で育ち、手作業の農業を見知っていた。母から教わったものは大きかった。鶏を思う存分飼いたいという想いは子供の頃からの夢で、これを始めた。そして日本鶏を飼う技術というものが失われたことを知った。手探りで自給生活を続ける中、伝統的農業技術が失われていることに驚いた。そして賢治の目指したところを知った。
賢治は世界の進んでゆく社会の方角の危うさを直感していた人だ。そして自然と一体化した自給農業を見据えて農業技術を探求した。その一方で、農民芸術という事を考える。日本人の暮らしの原点となる芸術観を、農民芸術として考えた。そしてその激しい理想への衝動ゆえに、37歳という若さで死んでしまう。生涯挫折の中でもがき続けている賢治。仏教を信条とし、農業を実践し、詩を書き、童話を書き、オルガンを弾き、水彩画を描く。水彩画を見るとそれが私絵画であることが分かる。絵はこういうものでいいという事を知る。賢治を真似したわけではないが、賢治と同じ方角の暮らしをしてきたことに驚く。私は賢治が死んだ37歳の頃に、やっと気づき暮らしを変えた。それから30年である。賢治が童話でその世界観を人に伝え続けているように、私も自分の世界観を、水彩画によって表わしてみたいと思う。それは、ささやかなものであるに違いないが、自分の見えている里地里山の自給生活で得た世界は、やはり私だけが見ているものだと思う。67歳生日に考えたことである。