フロリダ最悪の乱射事件

   

フロリダで又、銃の乱射事件が起きた。トランプ現象と同質のものを感じる。アメリカはそういう国に突き進んでいる。そういう国とは、暴力主義国家である。自分のと異質のものと調和を探るのでなく、廃除する社会。資本主義を支える競争原理が、人間性を変えている。自己本位を正義として平然進める価値観は、心の貧しい文化である。世界一豊かな国であり、心貧しい国。豊かな国の貧困層の増大。今、そのアメリカを目指して世界中の資本主義競争が激化している。その果てに待っているものが何かを想像すべきだろう。経済の豊かさが精神の貧困を生むという事が、競争の目的ではないはずだ。能力主義の問題に向かい合う時であろう。確かに社会に生きているという事は、それぞれの能力に従っている。有能な人のおかげで、楽をさせてもらっているのも確かなことだ。そのことと、有能な人が収入が多くなければその有能さを、開花し発揮できないと決めつけていいのだろうか。お金以外の価値を人間は見つけられないのだろうか。

アメリカでは銃規制どころか、ますます銃を必要な社会になっている。富裕層は武器で身を固めなければ安心して暮らせない社会。差別は人種差別以上に深刻な事態が産まれている。人間の能力による差別が格差社会問題になる。メキシコ移民を排斥するとしても、有能な人はどういう人種であれ、アメリカでは社会的優位な地位に存在する。そしてその社会的序列が固定化され、資本主義の悪い面が深刻化しているのだろう。その為に、貧困層の絶望感のようなものと、一方の持てる人たちの自己権益を守ろうという態度が表面化してきている。能力主義はそれでも、批判の対象にはなることがない。能力が違うのだから仕方がない。能力の劣るものは貧困は自己責任。福祉の対象であり、扶助する対象として扱われる。社会が平等化に向かうのでなく、より格差が広がる方向が、已む得ないものとして承認される。国際競争に打ち勝つためには仕方がないものとして、突きつけられている。

アジアでも韓国は先頭を切って後追いをしている。その成果も出しているが、その悪弊も顕著化しているらしい。日本の先例として、充分に韓国社会を分析してみることだ。それが、次に日本で起こることになるに違いないのだ。日本の社会では大企業ならば一定信頼できると考えていたら、次々に、実に幼稚な企業ぐるみの競争に勝つための嘘が発覚し始めている。日本でも競争の原理が優秀な企業の人間を変え始めている。徐々に現実化してきている。一方に貧困層の増大は、年々深刻化している。競争に敗れ希望を失った人間の、自暴自棄の犯罪が秋葉原の事件後警鐘が鳴らされたが、具体策がとられた訳ではない。つまりまた次の事件が起こるだろうことは、予感しながら、落ち着かない気持ちのままである。日本で犯罪が少ないのは、銃規制がされていることと、暮らしている人の大半が日本人だからにすぎない。テロが起きることは競争に勝つためには、仕方がないことなのだろうか。

人間という未熟な生き物は、競争しなければ頑張れないのだろうか。自己探求に頑張るという事は出来ないのだろうか。文化としての絵画が、人類にとって意味のある絵描きと言える人は、世界で10年に一人である。後の人の絵は、描く人にだけ意味が有るもので、他の人にはどうでもいい絵だ。そんなことは、1000年の過去をさかのぼって見ればせいぜい100人を拾い上げられるのみだ。絵を描くという事で競争をしたところで無意味なだけだ。しかし絵を描くことにはそれぞれの意味を見出し、何億人が絵を描いて居る。絵を描くことの意味は人との競争に勝つことではない。人と較べることの無意味さの自覚が出来なければ、能力主義を抜け出すことができないだろう。しかし、どれだけの不幸を経経ても銃規制ができない。人間はいつの日にか、能力主義を超えられるのだろうか。

 - Peace Cafe