家督制度が終わる
家督制度は終わろうとしている。それは封建制度の社会の終わりを意味するのだろう。封建主義思想が克服されたというより、いつの間にか、家の価値が失われていた。というのが実感である。昭和初期の世代ではまだ家という意識が残っていた。父にはそういう圧迫があったようだ。笹村の家から出るという意味で、私の名前は「出」なのだそうだ。それくらい父には家を振り払いたかったのだろう。父は次男で家督制度的には家を出る人間であった。ところが父の兄が彫刻家になり、家督を継ぐどころではなくなった。祖父は早く亡くなり、親の面倒から兄や弟の面倒までみるようになった。父は生活の才覚のある人で、人の面倒を見るのが生きがいのような親分肌の人だった。笹村は土佐藩の御典医だった。曾祖父に当たる人が、幕末に江戸に出て文学者の道を歩んだらしい。今でも明治時代のその人の書物が古書として出回って居る。祖父は日本画を学び、今でいうイラストレーターになり、学校に収める展示用の植物図鑑などの大きな巻物の絵を描いて居たらしい。今はあるのかどうか、私の子供の頃の地図はそういう黒板一杯の絵巻物のようなものだった。
父は笹村の家というものを背負って生きていた。若かった弟や家族全ての生活を支えた。民俗学を柳田国男氏から学んだにもかかわらず、学問を続けられなかったことを悔やみ続けた。7年間戦争に行ったという事があり、帰還してからは、笹村の家を支えなければならないと働いた。封建制度がまだこういう形で生きていた。そして私に出るという名前を付けて、笹村の家の縛りを抜けでろ、吹っ切ろうとした。それもあってか子供の頃から私は家というものを問題あるものとして意識してきた。意識していたから、その家制度が消えてゆく時代を注目して眺めていたことになった。家を支えるための人生というものをたくさん見てきた。人生の目的が家を守るという人を見てきた。舟原でもお婿さんを迎え、家督を守った家が少なくない。つい50年前までは日本中に封建制度が生きていた。家というものが人の生き方を制限していた。
それがいつの間にか家は消えている。これはこの50年の日本の変化で一番良かったことではないだろうか。家を支えよう、維持しようと生きてきた人にしてみれば、何だったのかとがっかりがあるかもしれない。しかし、家から抜け出られないという重荷によって、生き方を変えた人も多かったはずだ。そこには民主主義というか、西欧の個人主義というものの成熟があるのだろう。封建制度を克服したというより、自分というものがどうあればいいかの方が、家より大切なものになった。お家の為ということで弁解できない自分の一生が立ち現れた。家が人の生き方より、重い価値観として生き残っている社会は消えた。封建主義はいつの間にか克服された。しかし、実に困った風潮だとまだ考えている人も居るかもしれない。この点では克服まであと一息で、後戻りすることはないだろう。
家督制度の消滅は地方消滅とも結びついている。地方社会自体が消え去ろうとしている。こちらは絶対にあってはならないことだ。地方という言葉で言うが、つまり日本が失われるという致命的なことに陥る。その地方に残る人たちだけでは地域が維持できなくなっている。故郷に残り家督を守る人はもういないのだ。何とか新しい人たちを受け入れようとしている。そうなると地方に残る封建的な考え方を一層せざる得なくなっている。善悪ではなく、自分がそこに生き残るためには、新しい人に来てもらわない訳には行かない。日本が生き残るためには、お家大事の発想は捨てざる得なくなった。それは家や日本という国を弁解にすることができないという世界に入るという事である。自分自身の一生がどうであるかである。どのように自分一人の生きるを成し遂げるかである。身分でもなく、業績でもなく。生身の自分の日々の生活の中に何を見れるかであろう。まあ偉そうに次の世代の人たちには余計なことではあるが。