絵に従う

   

水路に曼殊沙華が咲いた。多分稲作とともに渡来した植物である。畔をモグラやネズミから守るために植えたと言われている。球根に毒があるが、飢饉には処理をして食べたそうだ。

絵を描いて居る時の気持ちは結構不思議なものだ。何処までも意識的な行為なのに、自分というものがいないような感じなのだ。絵の世界からの呼びかけに従っている。自分の意思なぞ出したところでどうにもならないという精神状態にいる。目の前の景色を絵を描く目で見ている内に、何処からか絵が浮かんでくる。この時はまだどのような絵になるかまでは見えない。ただ、この絵はここから描きだして、何とかなりそうだという程度の事は分かる。それは例えば上からの時もあれば、中央から始まるときもある。左上もあれば、左下で始まることもある。なんとなくその絵の行き先がおぼろげながら見える。筆を入れるとどう描き続けるべきなのかという事が、見えてくる。最初が見えないと始まることができないのだから、その時はどこか飛び越えるような気分も含んでいる。いつものやり方という事はない。絵はいつものように描くという、手順を作ったところでどうにもならないと思っている。絵を描くというのは今までにないことをしたいという事になる。

だから、出たとこ勝負のような感じも含めて絵を描き始める。ずいぶんいい加減なようだが、始まりは緩い感じで始まる。ときには描きだしてすぐダメだという事もない訳ではない。それでもたいていの場合は、描きだすと30分ごとに一呼吸をするような感じで、4回ほどを繰り返す。2時間ぐらい描くともう描くことがない。絵を描いて居るときは静かな日常的な精神状態である。興奮している感じはない。どういう訳か事務的に手が動いているような感じだ。次々に現れてくる、このように描く、こう描くという感じが繰り返される。そして描く場所もないとなって、それ以上は出来ないという事で終わる。そして翌日また日を改めて、描き継ぐことが多いい。また30分ごとに一呼吸で4回ほど現場で描く。絵のほうからこう描くのだという指示があり、それに従っている感じが強い。自分の絵がこうだから、こういう風にしてみようという事はまずない。

家で絵を始めるという事は全くない。見ている場所に惹きつけられ、絵にしたいという気持ちが湧いてこない限り絵は描かない。描いたところで無意味だからだ。だから、何か月も描かないことが普通だ。描きだすともう四六時中という事で描き続ける。法則などなく、ただ気分に任せているだけである。こうして現場で描いてきた絵は暮らしている場所に飾っておく。いつも見えるところに置いておく。額に入れたりしてきちっと飾る。ある時絵に呼ばれる。こうしてくれと絵が言うのだ。そうすればよい絵になるというのではない。良い絵にしようと書いている訳でなないのでそういう事になる。そこをそうするべきだ。そうしてくれと絵が私に示している。それで結果は分からないが従いやってみる。そんな感じで絵を描き継ぐ。呼び出しがないならば、それが絵が終わったという事ではないかと思うので、保存箱にしまう。

結局絵に従うのだ。絵は絶対者のようだ。分からない何かに向かって動き出す。良い絵に至ろうとしている訳ではない。自分というものが立現れるようにしたいのだ。その絵が自分が納得できる絵であればいい。何故くどくど他の人にはどうでも良い自分の絵の描き方を書き記すかと言えば、自分の絵を描いて来る時の状態を確認したいからだ。ブログで様々なことを書くのと同じだ。書くことで考えが明確になる。自分が明らかになる。記録することで自分の頭の中が見える。絵を描くのも同じ気がしている。自分の見て切る世界を確認している。このやり方が良いのかどうかが分からない。自分にとって良い絵というものが分からないという事なのだろう。そこで、自分の根源の希望のようなものにゆだねているのだ。特別のものが出てくるというより、自分の当たり前が出てくるのではという期待だ。そしてこのひたすら普通に描くという事が、何とも自分が生きているという事のような気がしている。何処から来て、何処に行くのか。絵という明かりを頼りに歩いている。

 

 - 水彩画