写生の材料準備
絵の仲間のたいていの人が、写生に行くときには、かなり大量の画材を持ってゆく。私も絵の具などまさかというほど持ってゆく。使い切るなどという事が起こらないように、あれこれいらないものまで持ってゆく。例えば絵の具は予備を必ず持ってゆくのだが、予備でありながら2本無ければ安心できない。水はアルミボトルに3本は必要。使うのは一本なのだが、気分的に3本は必要。筆は5本は最低でも持ってゆく。タオルは3枚は必要。紙は5枚くらいなければだめだ。加えて予備のスケッチブック。一枚の絵を描くのに、最悪の事態を想定して、一応は持ってゆく。それができるのは、車で行くからである。絵はすべて車の中で描いている。以前は、家にいるのにわざわざ車の中で描いたことさえあった。車で描きにゆき、降りて描くという事はない。場合によっては一度も車から降りない事さえある。だから書く場所は限定されているともいえる。描く場所のそばの車の中から描く。
ダイハツタントという軽ワゴン車の中から描いている。写生用の車としては、4代目である。描きたくなる場所が農道の先というようなことがよくあるので、軽自動車でなければ今はだめだ。私の描き方であれば、車が画室であるうえに、交通手段という状態であろう。車にはカーナビがある。これで絵を描く場所は登録してある。それは長野県であろうが、房総、伊豆、篠窪、みんな一緒である。描いた場所を忘れたら大変なことになる。わずか100メートル離れただけで、見つからない場所はある。意外に2度と行けない場所がある。同じ場所に行って、前回そこで描いた絵を描いているのに、風景を見ないで描いていることもある。私にとってよく見るというのは、肉眼的によく見るではないという事のようだ。その場の空気の中に存在するという事が重要になる。そして同時に、車という枠の中からその場を見るという事になる。車には写生の道具は常備してある。普段もしかして、通りがかりで描きたくなったら困るからである。家の近所でもすごい風景が出現することがある。
材料が山のようになければ、何かを作れないというのは、タングドラムでも、篆刻でも、染色でも、家具作りでも、陶芸でも、字を書くのでも同じである。やりたいという気持ちが湧いてきたときに、材料を買いに出かけてやるというのでは、やりたくない。気持ちが盛り上がれば夜中でもすぐに始める。すべては、目的もないし、期限もない。期待もされていないし、自分勝手なことである。やりたいという気持ちに従いたいというだけである。無駄なことである。無駄な割に材料が山のようになるという、怖ろしい事態である。今一番心配しているのが、古酒である。あれこれ作っているのだが、死ぬまでに飲み切れるかである。それで無駄にしないようにせっせと飲まなければならないのだが、これで身体にいいわきゃない。絵具だって、板材だって、私以外の人にはほぼ無駄なものだ。さらに、作られたもの、描いた絵など、迷惑以外の何物でもない。
絵の材料であった。紙もたいていは中判全紙3種類は持ってゆく。結局はファブリアーノで描くことになるが、一応はアルシュもインドの紙も持っては行く。結局のところ、描けないで帰ることもよくあるのだが、描きたくなった気持ちに従いたいと考えている。畑をやるのも、染色をやるのも、タングドラムも、絵を描く準備運動の様なものだ。準備運動で終わることが多く、制作にはなかなか入れないが、そのたまたま来る制作したい気持ちがいつ来ても対応できるようにしている。多分小学校4年生の時に絵を描くという意識を持って以来、絵を描くという事をいつも主目的に生きてきた。だから、私の生きるという事は絵を描くという事でしか結論が出せないようだ。ろくな絵が描けないという事は私がろくなものでないという事になるのかとも思うが、そうではないかもしれない。しかし、ろくな絵が描けたからと言って私がろくなものであるという事にもならない。