人口減少の功罪

   

千葉の方のどこかの市長が成人式の挨拶に、出産適齢期があるので、参加者に対して早く子供を産んでほしいと発言した。終わってからの記者の質問に対して、人口減少は悪いことなのだから市長として当然の発言と、平然と答えていた。なぜ、人口減少が悪いことと決めつけるのかが私にはわからない。人口減少は世界の人類にとって良いことである。地球という星にとっては希望である。このまま人口が増えれば地球は崩壊する。温暖化だって世界人口が半減すれば治まることだろう。人口減少を困ったこととする大前提は、当面の老齢化社会からくる、自分自身の心配から来ている。日本の人口は縄文時代以来増え続けてきた。初めて減少傾向が見え始めた、望ましい傾向である。何故減少を始めたかと言えば、人類という生命の危機意識ではないだろうか。人口が増えすぎることで種としての危機意識が、無意識にそういう傾向を見せ始めたという事で、まだ人類が健全な生物であるという証拠ではないだろうか。

世間一般に常識のように言われ始めた、人口減少への転換を日本人の危機のように主張する理由は、経済の問題だ。まさに拝金主義のなせる業である。労働人口が減少すれば、日本経済が世界との競争に敗北するという不安だ。労働人口の減少が問題化する理由は、労働力依存型産業に日本の産業がいつまでもいるからである。これからの工業先進国の産業の方向は、知的付加価値で勝負する方向である。いまだかつてない魅力的な、効率的な、永続性のある生産物を開発するところに未来が開ける。またそれが先進国の役割であるはずだ。日本の産業の形を変えて行くことが実現すれば、むしろ労働人口の減少は望ましい傾向を見せるはずだ。それがアベノミクスで放たれたはずの矢だ。何故それを望ましいと出来なかと言えば、現状に対して保守的だからである。成功体験から抜けなれないからである。それで原発から抜けられない。日本の農業に国際競争力のある分野が生まれるとすれば、労働力に依存しない農業に違いないだろう。

人口減少による地方消滅の問題は、人口の都市集中の問題である。地方社会の暮らしが魅力的なものでないから、若年の特に女性が都市に移動してゆくのである。その魅力的というのは、消費文化の作られたイメージの影響が大きい。経済のためにそうした幻影を作り上げてきたのが戦後の日本の方向である。それはたぶん、世界中がそういう方向にあるのだから、人間欲望というものがそういう流れの中にある物なのかもしれない。その欲望を刺激して利益を上げようというのが資本主義社会であるから、当然の成り行きなのだろう。だから、大き流れとしてどうにもならないことなのかもしれない。その流れで商売をしたいとするものは、人口減少によって消費者が減少することを畏れているのだろう。消費者が減って経済が衰退するというのは、目先の見方である。日本という国土の適正人口を考えれば、まだまだ人口は過剰である。食糧自給可能なところまで、人口は下がればいいのである。

人口の偏りが問題という事になる。都市に集中する。山間部から出てゆく。一次産業地帯から、3次産業地域に移動する。現代文明が作り出した、快適な生活のイメージがそうした人口の流れを作り出している。仕事が都会にしかないという事もある。多分この先もその傾向は変わらないだろう。田中角栄氏は田舎にはキャバレーがないから若者が出てゆくといったが、この時も男性人口の移動を重視していたのだ。むしろ、田舎には原宿がないから若い女性が出てゆく、というのが現代的課題である。コマーシャルが作り出す文化の傾向では、そういう方角は変えられないだろう。とすると、中山間地の人口減少を幸いなものとして、新しい暮らしを模索することの方が、現実的である。人口が少なく、農地が放棄され、空き家がある。この条件は今後さらに広がってゆくだろう。小田原だって人口減少が始まっている。周辺地区では、かなり目立った減少が見えてきている。この状況を自給生活にどう生かすのかであろう。

 - Peace Cafe