言葉と行動

   

連日篠窪に出かけて同じところを描いている。今日も出かけようかと思っている。絵を描くことは、行動のようであるし、観念の範囲のことであもるようだ。何か絵を描くことを行動にしたくて、いろいろやってきたような気がする。農作物を作ることは行動である。すべて自分の中のことなのだが、このブログを書いているのは行動なのだろうか。本を読んでいるのは行動なのだろうか。楽器を作るのは行動なのだろうか。はっきりと行動と呼べるようなことは少ない。人間が生きていることに直接かかわることは行動と言い切れるのだろう。何故そんなことを考えるようになったのかと言えば、絵を描くことは生きていることに直接かかわっているのかという点が気になる。行動という言葉は「あることを目的として、実際に何かをすること。」と説明してある。自給の農作業は自分の生命を維持するための食糧を得ることを目的にして、作物を育てる。実に行動の定義に当てはまる。

絵を描くということを、明確な行動にしたかったのだ。絵を描くことにかけてみようと思ったのは、中学生の時だ。もちろん絵を描くという事が好きなようだと思ったからなのだが、絵を描いてその絵が何かの役に立つ道を、ずーと考えてきた。自分が表現した絵が、人に対しての表現になるのかどうかに、悩み続けてきた。人に自分の考え、感じている世界を伝えることを目的にしているのか。ここで言う人はどこの誰のことだろう。うじうじと考え続けた結果、絵が自分という人間の自問自答であるという事は確かだ。彫刻を制作するという事は、同じくわかりにくいが、家具や楽器を作るという事はわかりやすい。使いやすい机を作る。良い音のする太鼓を作る。職人的な仕事は、目的がはっきりしているから、その作業は行動と割り切れるところがある。ただ目的があることで、純粋な芸術感がしない。しかし、その家具が使えないものである。座れない椅子という立体作品を見たことがある。使用目的を拒否することで、芸術としての目的を明確したかったのだろう。自分が坊主にならなかったのは、座禅という目的のないことに耐えられなかったからだ。

目的のない代表的なものが座禅だ。むしろ目的があってはならないとされる。悟るための座禅は乞食禅だと言われる。目的がないことで行為出来るという事はすごい。目的というものに、行為を行動にする安心の様なものを期待し続けてきた。多分二の人という自覚がある。二流でかまいやしないという居直りの中で生きてきたともいえる。一流が無目的の行動であれば、二流は私的目的のある行動である。三流は用途目的のある行動である。まあこんな風につい分けて考えるところが、問題なのだろう。自分の見えているもを突き詰めたところで何になる訳でもない。ただ見えているすごいものが、画面の上に来ないという事が残念なのだ。見えている世界は絵どころではない。マチスの絵がいくら好きだからと言って、見えている世界に比べれば、大したことはない。

美しい畑を作るという事は、まさにその風景を作る行動としての醍醐味がある。動くことで空間そのものが作られる喜びが湧く。自然と一体になって何かをしているようというような充実である。今はそういう里山というものが作られる人間の営みの様なものを、絵にできればと思っている。そういうことが絵画という事かどうかは相変らず不明だが、里山というものの持つ世界観はある程度感じられる。また里山を作っているという意識もある。この感じているものを描き止めておくことは意味ある事のように考える。それこそ絵でしかできないことだと思う。否絵でもできないのだが、絵以外ではさらにこの感じは残すことができない。テレビなので映像化されたものは、まるで違うと思う。説明はされているが、あの空気感とは程遠い。大切なのものはあのゆったりと流れる時間のようなものだ。

 - 水彩画