資本主義のギャンブル性
日本はギャンブル依存症が世界で一番深刻な国だそうだ。厚労省によると、ギャンブル依存症の疑いのある人は、国内で536万人にのぼり、その割合は成人男性で9.6%と、諸外国と比べても突出しいる。背景には「娯楽として日常に広く浸透しているパチンコの存在がある」と指摘されている。一般に外国では依存症は1%台となっている。それにもかかわらず、政府は景気浮揚策として平然とカジノを作ろうとしている。つまり、1割のギャンブル依存症の背景には、ギャンブルを肯定している文化がある。カジノの提案が選挙に悪影響どころか、票集めになると考えているようだ。いわゆる公営ギャンブルの垂れ流し状態である。政府が公的にギャンブルを独占して儲けている胴元なのだ。これではギャンブルに対して倫理的抑止力は働くわけがない。
日本人の倫理観において、不労所得に対する罪悪感が不足している。このことは株式投資にも表れている。政府が公的年金を株式投資をして、株価を高値誘導しようとしている。政府は公営ギャンブルを推進する。金儲けを最高の価値と考えている政府であり、現代の日本文化だと考えるしかない。拝金主義がいつの間にか日本人の共通価値観になりかけている。街の至る所にパチンコ屋というギャンブル場が存在する国になってしまった。こうしてギャンブル依存症の特出した国になってしまった。この現実を悪いことと受け止めなければならないのだが、果たしてどれだけの人が困ったことだと考えているだろうか。わたしも簡単ににギャンブル依存症になる可能性の高い人間である。将棋にはまったこともあったし、ピンボールゲームにはまったこともあった。
最近はコンピューターゲームのプロというものがいるらしい。1億円プレーヤ―が存在するという。将棋でも、囲碁でも、麻雀でもプロがいるのだから、不思議なことではない。これからはどんどんゲームをやらせようという親も登場するかもしれない。好きなことであれば、それに熱中することは別段悪いことではない。それが好きなのであれば仕方がないことだろう。野球選手も、サッカー選手も、おなじである。お金になることが正しい職業であり、間違った道ではないという判断はあるだろう。ゲームばかりしていて困るという親の声はよく聞く。電車の中でもゲームに熱中している大人がいくらでもいる。依存症になるくらいやらなければ、その道のプロにはなれないだろう。ゲーム依存症だから悪いことで、学問の依存症であれば素晴らしいことという事になるのだろうか。
勉強をする動機と目的が、良い会社に入るためというのであれば、別段ゲームも勉強も変わりはない。勉強が学問となり、人間のためになることであるから尊い価値があるのだ。これは農業であれ、絵を描くことであれ同じことのはずだ。政府は国際競争力のないものは価値のない農業のように主張している。日本という国土を守り、地域を守ってきた中山間地農業の価値を、お金にならないから切り捨てるという姿勢である。お金になるからカジノは奨励しようというのだ。人間が暮らすために拝金主義は害悪である。資本主義は拝金主義になりがちなのだ。人間の切磋琢磨する気持ちを競争に変え、より優れた技術を生み出すという事は悪いことではない。問題は資本主義の先にある人間の幸せな暮らしを、きちっと把握しているかだろう。