移住したころのこと
石垣島に行って、移住したころのことを思い出した。田んぼの仲間の若いパン屋さんが、石垣に移住しようと思ったのだが、暑くてだめだったといわれていた。私は何度移り住んだのかと数えてみると、2年以上住んだ場所で10回である。あちこちに移り住んだことになる。もう一度移ろうかという気持ちはいつもある。それなら沖縄である。確かに石垣はいい。移住という言葉にふさわしいのは、山北に住んだころのことだろう。何もない杉山に自給自足の開墾に入った。この経過は以前にも書いた。その動機は出直しという気持ちだった。自分の生き方を根本から変えたいと考えて、東京のすべてから抜け出ようという気分だったと思う。だから、展望も、目論見もないまま、ただ自分の一番やりたいと思うことをやってみようと考えるしかなかった。それは鶏を飼い、犬を飼い、自給自足で暮らし、絵を描く暮らしだった。それ以外のものを振り捨てる移住。子供のころの暮らしそのままである。行き詰まるまでは自分には出来ないと思いこんでいた。
子供のころ外で寝るということが夢だったことがある。夜空の下でそのままゴロンと寝てみたいと思っていた。何度かその希望は口にしていたのだが、相手にされなかった。ある時風呂敷のような布をテントのように張って、外で寝てみたことがある。その晩は真夜中になって大雨が降り出して、挫折した。川をせき止めて、泳げるプールを作りたいと考えたことがある。今の「いやしの杜公園」お滝の森の脇に何日もかけて大きなプールを作った。その脇でわさびを作っていた、新屋のおっちゃんが気が付いたのだが止めないでくれた。さらにしっかりとしたものにして、泳いでいた。そんな暮らしをしたくなったのだ。夢はぼんやりとあったのだが、その一番が自給自足で暮らしてみたいということだった。たぶん祖父の「坊さんは本来自給自足で暮らしていた。」という、刷り込みがあったと思う。向昌院の暮らしは自給自足だった。蜂も飼っていたし、ヤギも飼っていた。田んぼも、畑もあった。桑を栽培してお蚕さんまでやり、機織りをしていた。
東京で行き詰まった時に、自給自足を考えたは当然だったかもしれない。目算があったというより、自分にはできないだろうが、それ以外に道はないと思い込んだ。鶏を飼いたいだけ飼った。面白かった。それだけで十分だと思った。何故そのころの気持ちを書いているかと言えば、移住に良い時代になったもんだと驚くからだ。30年前は移住者を排除する気分が強かった。石垣もそうだったようだ。房総に移住した友人が、ブルドーザーで道を塞がれた。そんなことは日常茶飯だった。山北では木を切る許可をもらわなかったということで、始末書を取られた。初めての事例だといわれた。小田原にきた15年前でも、農業者は引っ越しをしないという理由で、小田原の農業委員会から、農業者登録を拒否されたぐらいだ。たった15年前、こんな人権侵害が当たり前のことだった。地域の農業が衰退する理由に、よそ者の排除があった。それが大きく変わり始めている。
最近、うちで研修していたひとが、和留沢という舟原の奥の開拓の部落に移住した。私も15年前和留沢に家を探した。その時は受け入れてもらえなかった。そこで一つ下の舟原に移ってきた訳だ。和留沢で50家族を超える人が暮らしていた時代があった。今は10軒ない。日本全体で考えれば自給自足したいと考えれば、移住の適地は限りなくある。石垣には、移住者と思われる若い人たちと何度か出会った。瀬戸内の島が良いと思えば場所がある。九州の霧島に行きたい。あるいは岩手の岩洞湖あたりはどうだろう。などいくらでも場所がある。人口減少は移住者にはありがたいことだ。人間らしく暮らすにはよい時代が来ている。1日1時間働く。1反の場所があれば人間は生きてゆける。軟弱と言われてきた私程度の体力で大丈夫だったのだ。問題は観察力である。明日の天気がわからないければだめだろう。そのためには天気情報を集める能力と、空模様を感じる力を磨かなければならない。生きるための観察をして手入れを行う能力である。