篆刻の面白さ
篆刻を始めたのは、世田谷学園で教えていたころだから、もう30年前になる。やると案外に簡単で、それなりのものができる。ところがそれなりの域を抜け出ることが難しい。このあたりにはまり込む面白さがある。なおし直しの書道のような感じで、訂正の積み重ねが面白いという妙な感じがある。篆刻は中国で出来たものだ。秦の始皇帝の時代に、中国では印鑑を授けるということが、権力との関係を表していた。材質や大きさに寄って、役職や立場があらわされるように決まりが出来た。日本のたぶんある地方の、中国と交流のある有力者に、「漢委奴國王」の金印が与えられた。後漢書の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述と結びつけられている。田んぼから出土したということも言われるが、いずれにしてもこうした印鑑が残っているところが、物持ちが良い日本らしいところだ。
印鑑というものは金印はもちろん上位のもので、大きさにも重要な意味があった。当時の1寸という大きさには意味がある。玉を使うことのできるものは皇帝のみである。田黄石を使っている。黄色の少し透明な石である。玉の篆刻が権力の象徴から、例えば皇帝がこの絵を鑑賞したという証拠に、その絵の上に皇帝の印鑑を押してしまう。絵が良く見えないほど印鑑が並んだものがある。絵の中に押されるということもあって、皇帝の品格を表す必要が生まれる。ただ、偽造されなければいいと言うような複雑な字体から、絵に入ってもおかしくないような、美しい印影が作られるようになる。それが徐々に篆刻の世界を形成することになる。作者の名前として押された印は絵の隅にあって、絵を邪魔しないように押されているのに、見たという証拠の印に押された印が、絵の真ん中にどでっと有ったりする無神経が不思議だ。有名人の印が価値を上げる。拓本でも取った後に、石に傷をつけてしまい自分の拓本の価値を上げようとする。このあたりの感覚が中国である。
私の篆刻は全くの楽しみである。大体1時間ほどで一つを作る。気に入らなければ、削りなおして又にする。気に入った字を彫るだけなのだが、何に使うというより、彫ることが面白いだけのことだ。印の頭に自分の顔を彫った物もある。好き勝手にやるだけなので、ローマ字を彫ることもあれば、絵を彫ることもある。でたらめに彫っていても好みというものは出てくるようで、なんとなく共通の感じはある。要するにヘタウマなものを作っている。ただのヘタウマなのだが、幼稚な感じは嫌なので、それっぽい風格を目指す。自分の癖のようなもの、趣味性が強く出る。まだ自分の絵に押せるようなものが出来たことはない。せいぜいはがきに押すことがあるくらいだ。年賀状には何度か「春」という字を彫って使った。字を書いたときに一応隅に「出」という字を押してみたこともある。まだ納得行く字には程遠い。楽しみだから気楽なもので、正直どうでもいいわけである。どうでもいい自由感にむしろ興味がわく。
石の頭には、龍とか、獅子とかが彫られている。その意味はどちらかと言えば、印鑑に呪術的な、魔除け的な意味がある。印鑑で金運上昇とかいう、少々いかがわしい商売の源流である。魂のようなものを込めようするには、石は良い材料かもしれないが、私はそいうのが大嫌いだ。字というものに、神聖を考えた中国では、字を押すということで、何か結界のような意思の表示にした。そのために、印鑑にはそれを司る動物を必要としたのかもしれない。篆刻の石には種類の名前がある。「尼山金石」「青金石」「桃花石」「寿山石」「田黄石」「鶏血石」「白芙蓉石」「昆崙緑凍石」採取される土地の名前も多いいようだ。いろいろもっともらしい名前があるところが中国的である。琥珀蜜蠟、瑪瑙、翡翠、水晶、サンゴ、象牙、もある。象牙や虎の牙というようなものまである。朝鮮でも盛んなようで、日本で売られている石は朝鮮経由が案外に多くある。