類型化と模倣とエンブレム

   

年に一回ぐらいは絵画の公募展に行く。いまさらながらだが、絵が類型化しているのに驚く。ありそうな絵が想像通りに並んでいる。だから案内状をくれた知り合いの絵を目指して、一直線のかき分けてゆく感じになる。丁寧に見るような気にはならない。もちろんこの何千という絵の中に、1点2点は良い絵があることは知ってはいる。しかし、それを探し出すような、気分には誰だってなれないのではなかろうか。なぜ、類型的な絵を描いているのだろうとは思う。私のやっている絵のようなものとは、はるかに遠いい世界の出来事のような気がして、気が遠くなりそうだ。友人の個展のついでに、銀座で画廊巡りをすることがあるが、ここでも私の考える絵に出会うことはまれなことだ。理解しがたいというより、理解しやすい絵しかない。どうぞ私を買ってくださいという絵らしきものがなんと多いいことよ。絵は商品絵画と公募展向き模倣優等生に類型化してしまった。

なぜ絵が類型化するかと言えば、理由ははっきりしている。絵から出発するからである。自分から出発するのではなく、出来上がった絵というものから始めるからだ。書写というもがあるが、いわば画写というようなものなのだろう。明治時代以前の方法だと思うが、絵を模写するのが絵の勉強法だった時代すらある。類型化しなくては困るものが絵だったわけだ。見本があり上手にまねることが目標になる。文章でも同じである。このブログでも批判的コメントの大半が類型化している。どこかにある文章をコピーしたような、批判のお手本をまねているようなものしかないと言ってもいい。この人は自分の頭で考えたな、というコメントがあると批判であれ嬉しくなる。本当の文章が書かれたときには刺激がある。だからそういう文章を待っているので、書き込みは自由にして、意味不明のコピー文を無視している。私だってこのブログで類型化しているが、出来る限り実体験を書くことにしている。

絵もそうだ。自分が見ている肉眼の世界を描きたいと思う。今朝もこれから田んぼに行くが、田圃を見に行くのは、良いお米を作るために見るのだが、この見るというのは同じようで同じではない。常に新鮮な目で見ない限り、良いお米は出来ない。お米は結果がわかりやすい。5俵より7俵のほうがいい。粒張りがよい方が、粒張りが悪いよりいいお米だ。このお米は力があるとか、アトピーにならないとか、そう言う訳のわからないことでごまかそうとする人もいるが、結論ははっきりしている。良いお米のほうが、長く保存しても種もみになる。それは種というものが命をつなぐという目的の要だからだ。おいしいなど怪しい基準だ。鶏の卵も同じだ。長く養鶏をやってきたがよい卵とは、長く孵化できる卵だ。そいうはっきりした目的に向けて「よく見る」ことになる。

「絵の見る」はもう少しわかりにくい。今見ている世界の真実まで見なくてはならない。この世界の命がより長く続く世界観で見なければならない。オリンピックエンブレムでは、デザイナーのネットコピーが問題化した。創造的とか、オリジナリティーとはどういうことだろう。自分の頭の中だってすべてコピーのようなものだ。拝金主義が絡むから、話が厄介になるだけだ。いいものを作れればそれで沢山である。ついでに金儲けがしたいからおかしくなる。選考過程を公開するなどと、もっともらしくどうでもいいことでごまかそうとしている。書道などすべてが模倣である。なんで同じ字を書いたなど文句を言う人はいない。オリジナリティーなど全くない。私が書で見たいのは、その字を書いた人の人格であり、よすがである。坂本竜馬を感じる何かを、竜馬が書いた字を通して感じたい。知らない人の字などすべて、代書屋さんと同じである。少々上手であろうとどうでもいい。問題は竜馬が相当の筆遣いでなければ、字に竜馬が出ないということである。つまりそれが私絵画である。

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