石原瑞穂氏の個展
石原瑞穂さんという人の個展を見に行った。とても難解な作品だったのだが、やらんとしていることは見たその時より、今になってじわじわ頭の中の整理回路を巡っている。小田原の回廊瞬というところで、14日までやっている。一言で言えるような絵ではないのでもう少し考えて書くつもりだったのだが、何か重要なものがありそうなので、見に行ってみる価値は高いのでお知らせを含めて書く。もう一度行くつもりでいる。誰かに早く伝えないと、終わってしまうということもあるので、まとまらないまま、書けることを書いてみる。人間の顔が描かれている。そのことに気づいたのは、2回りしてからだ。たぶん一時間いても、そのことに気づかないで帰る人もいるだろう。絵を見慣れているから、気づいてしまったということがある。それが良いことなのかどうかもわからない。ネタバレの推理映画になりかねないのか。顔だということに気づくか気づかないかで、ずいぶん違うものに見えるはずだ。意味を知ってしまうことで、意味から読解しようという意思が働いてしまう。それを拒絶する意味で分かりにくくできているのかもしれない。
作者は自分の生身の人間というものを表面に出さないように、相当の用心で気おつけている。私のような、自分が表面に出てくるように追い求める描き方とは、対極にいる。しかしその表現法は対極にあることで、かえって、同じことをやっているらしいと、妙に感ずる。つまり見えるということの在り方を、問題提起しようとしているのではないだろうか。見えるということを、このように見えているという表現と、このように見えないという表現。見えるということはどこまでも理解できるようなことではないのかもしれないという、諦念のようなものか。見える意味のわからなさを、きちっと示そうとしているのか。わからないという周辺のことなのだから、当然難解で、晦渋な表現になる。しかし、見えているということの意味の奥深さから、そう簡単に結論など出せないし、むしろその結論を手繰ろうということが、絵を描くということではないかと、静かに深い奥底のところで、つぶやいているというような絵なのだ。しかし、隠しても、どれほど小声で語ろうと、語っていることには変わりはない。一度その耳鳴りのようなものが聞こえてしまうと、えっ、えっ、と聞き返すしたくなる。
たぶん誰もその声は聞き取れないのだろう。わからないということの形を、よく分からないまま示そうということは、それくらい難しいことだ。分かったような絵はいけないが、ここまでわかっているというのが普通の絵だろう。たぶんそのためなのだろうが、実に表現に凝っている。自分を隠すためにはこれくらいの武装が必要なのだろう。鳥の子紙をしわくちゃにして、その上から柿渋を塗り重ねるらしい。そう説明をしてくれた。私には何で描いたものであろうが材料はどうでもいいのだが、作者としては、見る人に言葉にすることがあるとすれば、それくらいしか語ることがないのだろう。私は顔を描いているのですと言ってみたところで、真実からは遠ざかるばかりだ。どうせ絵は説明など不能なことなのだ。
石原さんの絵は、問題の解決ではなく、問題の在りかを指し示すことなのだろう。人間というものが問題の在りかだ。アカデミーというものは、人間を研究するところだと聞いたことがある。人間が存在するということを、浮かび上がらせようとしている。この探る危うさのようなものを描いている。はっきりとさせることで、見えなくなるという真実。ではあいまいなままでいいのだろうかという疑問。刺激の残る個展だった。