自民党離党武藤貴也氏

   

戦争拒否に対して無責任と言い放った武藤貴也氏が、実は非公開株の譲渡疑惑で自民党を離党した。武藤議員という人は、自民党の公募候補だったはずだ。自民党の議員候補審査で選ばれた人だ。戦争無責任論をぶち上げた時も、自民党内ではさしたる批判は出なかった。ここに自民党の幹部の本音があるのを、自民党議員はよく知っているから、実は上を見て発言をしているのだ。世間も案外こういう人が好きだということも自民党議員はよく知っている。派閥の長である麻生氏などは、安保法案が通れば好きなことが言えるのだから、もう少し我慢しろなどと、気楽なことをしゃべっていた。以前のホリエモンもそうだったが、自民党の若い候補には、こういうお金にえげつない人が多い。考えてみればアベノミックスが看板である。日本全体の価値観がお金に傾いているということなのだろう。お金にならないことをしている人を、無意味と考えるのが世間の風潮なのだ。

日本の軍国主義と、経済至上主義は同根なのだ。だから、「富国強兵」と言われた。安倍氏や自民党の考える日本国とは、お金持ちたちの日本のことなのだ。だから、美しい国日本、瑞穂の国日本という経済とは関係のないお題目は、どこかへ葬り去られたのだ。それよりも、TPPであり、グローバル企業の日本なのだ。政府がそういう傾向というのは、いつもそうではあったのだろうが、安倍政権では露骨になったということだ。お金のことを全面に出すのははしたないというような感覚が消えたのだ。人間が生きる目的はお金ではない。というような倫理的意識が失われたのだ。お金で何が悪いというような居直りが普通になった。それが特に国の政治を担う国会議員で一般になってしまった。瑞穂の国など、何を血迷っているのかという人ばかりである。それならそれでいいのだが、右翼的な人に限って、農業を国の土台にするなどと言い出すから混乱する。安倍氏の著書にも、武藤氏のブログにもそういうことが書いてある。国粋主義の考える日本国とは、いったいどういう国が想定されているのだろう。

ここで思うことは、瑞穂の国が、大規模農業であろうかという疑問だ。瑞穂の国が意味するものは、集落単位での小さな農家の集まりが、国全体の至る所にある姿だ。稲作文化圏のことだと思われる。観察に心を砕き、手入れの範囲で自然とかかわる。全体と個人との調和を第一に考える文化だ。自分にとって良いということが、地域全体になっていなければならない文化。我田引水こそ瑞穂の国を崩す価値体系となる。自分だけという思想を持ち込めば、全体が崩壊し自分も苦しくなる。ところが大型農業は違う。企業としての利益を求めて、他者を慮るのではなく、自分の合理性に徹しようとする企業的価値観である。そうした競争原理が世界を豊かにしたことは確かであるが、同時に競争に敗れる弱者が必ず生まれる。日本ではいよいよ弱者が目立ち、特に伝統的農業や、伝統的工芸にかかわる人は、生計が成り立たなくなっている。

困ったことに、そしてそういう人たちを要領の悪い、愚者という扱いをする。抜け目なくお金を儲ける、ホリエモンや武藤氏のような人間がもてはやされることになっている。残念ながら、選挙という中でそういう人が選ばれる姿がこの国の実情なのだろう。全体として考えれば、この点ではほぼあきらめている。せめて、そういう枠でない、自分たちの集団を作り、関係を求めるほかないと考えている。我々は年々少数派になるのであろう。残念ながらそう思わざる得ない事象ばかりである。価値観であるから、少数派になるからやめるというわけにもいかない。だから、少数派として生きる覚悟と方策である。

武藤議員から素早く離党届が出た時には、自民党ではほっとしたことだろう。自らの責任や、公党としての恥を感じていない。政府では官房長官が、問いただすようなことを記者会見で言っていた。とんでもない話だ。自民党自身が離党届を出した時に、まず受け取って事情聴取をすべきだったのだ。離党を喜んで受け入れて、仕方がないなど安倍氏は受け止めたようだ。自らの同志が何をしたのか知っているはずだ。ブログを読めば百田氏以上の人である。暴言がちりばめられている。その人が今回の離党については、ブログでまだ触れていない。議員辞職しない以上、ぜひとも議員としてのブログなのだから、離党の理由を述べるのが筋であろう。それが選挙民への責任だ。都合が悪くなれば口を閉じるのでは、今までの沖縄県民を誹謗した内容は、どう責任を取るのだ。

 - Peace Cafe