国連PKO軍参加の意味
今審議している、安全保障法制は、憲法学者の間では憲法違反という疑念が出ている。過去の内閣法制局長官も、多くの方が憲法違反であるとしている。しかし、政府は背に腹は代えられない。当面憲法改定が難しい以上、憲法解釈を政治的に拡大する以外にないという考えのようだ。現実は空理空論では動かない。政治は今ある国民の安全を守ることがすべてに優先する。こういう主張のようだ。しかし、憲法の下に法律はあるものである以上、時間がかかるとしても今ある世界の現実が、日本人の安全を脅かしていて、安保法制を変えれば守れるのか、国会審議してほしい。中国の脅威に対する対抗が必要だというのが、今回の安保法制の必要性なのであろう。アメリカからの要請もあるのだろう。政府もそのことを隠しているわけではないが、PKO参加を出来るようにするとか、ホルムズ海峡に行けるようにするなどと、中国以外のことが主たる論議になり、問題を分かりにくくしている。
ホルムズ海峡が機雷封鎖されたなら、石油が来なくなる。石油は日本の生命線だから、自衛隊が取り除きに行けるようにすると、安倍氏は力説している。世界から見れば、日本は石油確保に軍を出すと宣言していると受け止められかねない。経済のためなら、戦争も辞さないと世界に宣言している。いくら日本人の本音であるとしても、情けなくさすぎる、恥ずかしい。日本人の本音であろうと、政府は読んでいるのだろう。PKO参加はどうなるのか。国連のPKO活動はあくまで人道的に、つまり、国家とは言えないような、自国民を虐殺し続けるような、テロリストや、あるいはその当事国家であったりするのだが、住民を保護するために、出兵している活動と考えられる。無謀な隣国が、主権を無視して攻め入ったので、やられている国からの要請があり、助けるために出かけてゆくというようなものではない場合が多くなっている。
最近のPKO活動は紛争当事国からの要請に基づいて、国連PKO軍が出撃するわけではない。国際社会から見たら、人道的に許されがたい、住民の虐殺が行われている場合、救済のために、要請なく出かけざる得ない活動になっている。しかも、以前のように停戦監視の範囲ではなく、本格的に戦争に参加しているような形もある。本来内政不干渉が国連の正しい判断である。どれほどの虐殺があろうが、内政問題に国連は関わるべきではない。ところが、国家とは言えないような、虐殺をおこなう国がある。こういう事態を無視できなくなっているのが現実であろう。またそこに、アメリカの正義という名の下の、様々な内政干渉的な、アメリカ軍やその関連国の軍事介入がある。それに日本の自衛隊も参加することになる。世界からどのように言われるにしても、日本は軍事的なかかわりは避けるべきだ。PKO活動は、自衛隊員の命にかかわる危険な行為である。同時に日本国民がテロ攻撃を受ける可能性を高めることになる。
日本が傍観者になり、国連のPKO軍にも軍事的には参加しないことは、国家としての尊厳を失うのかという問題がある。それに代わる、日本の世界に対する人道的支援を行えばいいのだ。日本は軍事的には何もしない非武装の国であるから、世界の貧困や、災害に対しては、精一杯努力をしている。こういう国になろうと、憲法は方向を示している。平和的努力とはそういうことのはずだ。国連軍とは言え、やられる側に立てば、その報復の連鎖は止まることがない。武力で解決できることは少ない。イスラム国など日本をテロ対象と宣言までしている。イスラム国ですら、日本は別であるといいたくなるような国を目指すべきだ。そんなことは現実離れした空論であると、言われることは分かっているが、そうした理想主義を目指す可能性のある国は、世界で日本が唯一と言ってもいいのだ。日本がその理想を捨てたときに、世界はただ一つの希望を失うことになる。