絵を描くと言う事の意味
絵を描くと言う事を続けてきた。小学生のころからだから、55年は絵の事はいつも頭に有った事になる。中学生の頃画家になりたいと考えた事もあったのだが、それはかなわぬことであった。しかし、有難い事に、絵を描く事は出来る環境で今日まで来た。それで今でも毎日絵を描いている。自分の生きると言う事の為に、絵を描いている。。その事は自分が生きているという事と、どう関係しているのかという事を良く考える。先日風呂屋のテレビで、子供のアニメが放映されていた。IT仮面だ。とか叫んでいたのだが、何処でもドアーを理論的には解明した天才という、高校教師の話で、良く見てはいなかったのでストーリーは分からなかったが、YDだと叫ぶ。これがやりたい事しかできない人間という意味らしいのだ。何だ私と同じだと思った。私も色々やってい生計を立ててきた。勤め人も7年間やったのだが、それ以上は無理だった。
人に言われて何かをするという事が出来ない傾向の様だ。これはつくづくそうだった。それが私とかかわる人を腹立たしくする。だから、上手く人間とかかわると言う事が今でもできない。そういう自覚がある。それで、65歳まで来てしまった。だから、人とかかわる事はいつでもトラブルになる。絵でも、一人で描いている分にはいいのだが、絵の組織とかかわると上手く行かなくなる。そういうもろもろが絵に影響してしまうと言う事になる。いまさら直すという事よりも、人とのかかわりを減らしてゆく方がいい。仕方が無い事以外は、人とのかかわりは無理と考えて置こうと思っている。こういう人間だから、一人でできる農業に向かったのだろう。農業も純粋な販売的農業ではなかった。小さな宅配をわがままにやらせてもらった。後は自給的な農業である。あれこれやっては見たが、一人でできる絵を描くと言う事が自分に残されたものだ。最近篠窪という小さな集落の周辺に書きに行くのだが、絵を描くと言う事は面白い事だとつくづく思う。
絵を何故か描きたくなる。描きたくならなければ描かないと決めているのだが、描かずにはいられなくなる。今は絵を描くと言うより、見えている状態をどこまで写し取れるかという事をしている。描いている間中、どうしてこの場所を描きたくなるのかという事を自問している。その事が分からないと、見えている眼前の物が写せない気がするのだ。あの色に惹かれて描きたくなったのか。あの辺りの空間の動きに惹かれたのか。あるいは、とか考えると言うより、頭に浮かんでは消えて行く。この去来するものにかかわらず、ただ見えているように描いている。自分の中にある絵画らしい絵画の事はそいうときは忘れている。絵にして行くと言うより、眼に見えている物にどうすれば近付けるのかに追い立てられている。気分としてはできたような、遠ざかる様な、結論は出ない。もしかしたらこの試行錯誤をしたくて絵を描きたくなるのだろうか。
絵が一種の自分の記録の様なものかもしれない。私はデーターという物が好きだ。毎日体組成計に乗って、色々測定する。生活を確認するのがこのデーターなのだ。最近人間ドックで血液検査というものをやってもらった。また知りたくなって、1ヶ月の経過の血液検査をしてみた。そうしたら25年前の出てきた、データーと比べて実に興味深い。東京から山北に越して、数年した40才の時のデーターである。わざわざ山の中から人間ドックに行ってみようと考えて出掛けたのだ。65歳の今の記録と比べて面白い。1ヶ月半経ってどう自分の血液のデーターが変わったのかどうしても知りたくなったのだ。3ヶ月後もう一度やるつもりだ。実は絵も見えている今を記録したいと言う事なのかもしれない。自分が見えているという不思議をそうして解明して見たい。生活で血液組成が変わるように、生活で見えているも変わっているような気がするのだ。