アンデパンダン展
第68回のアンデパンダン展を見に行った。乃木坂にある国立新美術館である。ルーブル美術館展のとなりでの開催だった。30日が最終日という事もあって、かなり混み合っていた。アンデパンダン展の本家はフランスで、150年も前に反アカデミズムの画家達が無審査、無監査の自由で独立した仲間の会を作ろうと言う事でできたものだ。日本人の好きな、ゴッホ、スーラ―、ルドン、セザンヌ、マチス、ロートレックはアンデパンダン展から出てきた画家なのだ。世間で無視される様な評価の無いものから、本物は出てくるという好例である。当時のパリで評価されていた、サロンの売れっ子画家で日本で今でも知られている人の方が少ない。芸術の皮肉な運命を感じる。日本のアンデパンダン展も同様の趣旨でできたものだ。日本では、芸事には何でも、免許や段位があるよう様な世界になりがちである。
日展に何回入選したとか、何とか会の会員とか、そういう肩書で絵の良さまで決めたがる傾向がある。権威ある何かに、評価の目安をつけてもらいたがる。自分が見ていいのか悪いのかを決めると言う事が難しい。その中で、アンデパンダン展は権威を無視しして行こうとした。審査をしないとどうなるかという事を、この会の68年は示している。それならお前も出せばいいとなる所だが、私は出していないが、時々は見に行く展覧会である。今年良かったと思った人の名前だけを上げてみれば、茂木勝昭、高橋孝雄、大野恵子、小野里理平、蟹江義典、武田昭一、荒川明子、が絵画。彫刻が、田谷安都、中井由純、大島美枝子、久村進、なかなか見ごたえがあった。これだけ見て感動する展覧会は少ないと思う。個別の経歴は殆ど知らないし、本人を知っている人は、半分くらいである。でも私にとっては、公募展で良いと思う人がいるのが珍しいのが現状である。
帰りに、水彩人の仲間の大原さんの個展に行った。その途中で木村忠太展をやっていた。絵の彩度が落ちていたので驚いた。パステルと、鉛筆画は、輝いていたのだが、油彩画が昔の明るい印象を失っていた。35年前の印象と比べての話だから、思い込みと比べている性なのかもしれないが。木村氏の絵はひび割れはない。所が一部の絵の具が濁っている。その為に、絵全体のバルールが何処かおかしい感じなのだ。良くない混色をして描いていたために、退色しているのではないだろうか。怖い事だ。その後回った大原さんの個展はなかなか良かった。仲間ボメになるかもしれないが、25年ほどの間の絵が出ていた。これがなかなか良かった。彼は常に結論を出して描いているのだと感心した。結論を出すという事は、私には到底できない事だ。
私は20年後くらいに結論を出すために、今は研究をしているというような、おかしな仕事の仕方だ。分からない事は描かないと決めたからだ。分かったつもりになるより、むしろ何故なのだろう。何故見えているもんが画面に表れないのだろう。また、思いもしない物が何故画面に出てしまうのだろう。等など自問して描いている。これでは結論が出ない事はやむえないことかもしれない。最近はそれで仕方が無いかと思うようになった。絵も様々である。人の絵を見ると言う事で自分の絵の有り方が見えてくる。多分アンデパンダン展で、自分が良いと感じた人は、結論で描いていないと言う人なのかもしれない。絵を見ると言うのは大仕事になる。絵を描くのと同じ事だ。疲労困憊して家に戻った。