ブログは生きている

   

ブログと言う物は生ものである。それで、その日そのとき気付いた事を書いている。出来る限り、その時々の自分そのままを書こうとしている。自分の実際の状態を矛盾しても書き止めておきたいと思っている。自分自身が確認の為に読み返す材料である。最近麹を仕込んだが、やはり、前回とは違う。何故か今年は加温が不要だった。何故、加温の必要な年もあれば、入らない年もあるのか。毎年、1月の今頃にやるのだが不思議な物だ。気候だけではない様々な要素が関係する。それが発酵なのだと納得するしかないが、こうやって記録しておけば、次の時思い出す事になる。ブログを始める前も、記録には熱心だった。何でも書き止めていた。例えば、三重の何とか旅館の椿の間は絵が描ける、と言うようなことだ。それがブログと言う実に整理のいいものが出来て、麹で自分のブログ内を検索すれば、色々の過去体験が出てくる。便利この上ない。そうした事を繰り返しているうちに、実体験と言う物は大切な物だと考えるようになった。

稲作の深水管理と言うことがある。現在、8センチが良いと考えている。普通は3センチ前後だろう。20センチにまで深水するという人もいるし、浅水こそ最善だから、流し水だけで貯め水はしないと言う人すらいる。私が8センチにたどり着いたのは、ヒエが発芽しないぎりぎりの水深を確かめた結果である。田んぼに水深を計れる棒を立てて、観察を20年ほど続けた結果である。これは小田原の結果であり、他所はまた別かもしれない。田んぼはそういうものだ。他所ではどうかという事になるのかは、ブログにそれぞれの体験を書く人が無数にいたならば分かる事だ。私はその何万分の1を記録している。それは、政治でも同じだと思っている。当たり前のことだが何でも正解など無い。だから、普通の人が暮らしの実感を無数に書き止める事が、一つの方向を作るのではないかと思っている。それがブログの生モノの価値である。

ブログで一番がっかりするのは、実に面白いブログにたどり着いてなるほどなるほどと読む。そしてお気に入りに入れておく、そしてしばらくしてまた読みたくなって行ってみると、新しい記事が無い。別段知り合いでもないが、どうしたのだろうなどと気になる。そして、残骸は残っているが、もうブログの更新が無い。継続しないのは何故なのか、形を変えたのか、根気が無いという事だけか。そういう事もあるので、私は毎日朝の日課にして、何が何でも続けることにした。継続は力なりとも言うから、つまらんおやじの日々の感想でも、生モノが集まれば無意味とは言えないのではないか。このつまらないというのは謙遜ではない。誰もが他人にとってはつまらない物だと思っている。しかし、麹を仕込んだらこうだったというような事は、集まれば、自給生活の本当の意味での参考になる。

麹の作り方は20年前に始めたのだが、その人は麹菌を採取する所からやっていた。試みては見たが、それは止めた。麹菌を購入した方が、良い味噌になる。そういうレベルだと言う事なのだが、原理主義的抵抗は無駄なことだと思った。その辺の加減が実際の暮らしでは重要になる。塩も作るべきだと思わないではない。思わないではないが、やった事が無い。やろうとした年に、原発事故が起きた。今は塩作りは考えていない。麹は3分づきぐらいで作る。あれこれやってそのあたりに落ち着いた。玄米では蒸しが時間が掛かり過ぎる。良い麹が出来にくい。良い麹都は麹を割ってみて、中央まで菌糸が入り込んでいる物だ。色は白が少し灰色になる。黄色みが出る年もあったが、色はは麹菌で少し違うようだ。

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