自然保護と路上生活者

   

小田原のある橋の付近の路上生活者の退去要請について、強い怒りがあります。路上生活者がいることは、自然観察の見学者がたくさん来るようになった現在、とても困っているということを、環境保護活動をされている人から言われた。工業団地もあるので、路上生活者がその妨げになっても困るとも、言われた。自然保護活動も、路上生活者の生活支援も、同じ事だと私は考える。豊かな自然環境が失われた最大の原因は、人の暮らしが自然の中に織り込まれなくなった事にある。人口が増え過ぎたこと。農業の質が変わったということも大きな原因としてある。何もしなければ失われてゆく自然環境。これは日本社会の方角の間違えが原因である。自然環境の多様性を保つ大切さは、人間の暮らしが自然と調和するものでなければならない。赤とんぼがいようがいまいが、田んぼでお米はできる。しかし、赤とんぼもいないような環境の中で人間らしい人間は成長する事はできない。日本人の豊かな感性は、そうした日本の水土から生まれた物だ。

路上生活者は社会からこぼれおちた人達だ。現代の能力社会からすれば弱すぎる人達。勿論当人の問題が大きい事ではあるが、社会には必ず弱者が存在する。その弱者との対応の仕方に、その時代の社会のあり方が表れる。時代や社会によっては見苦しい迷惑な物として、排除の考え方が働く事がある。こうした日本の傾向は強まっている気がする。戦後の貧しい時代の方が、助け合う持ちが今よりは一般にあった。社会はやさしい時代になり、良くなっているようで、むしろ悪くなってきている。格差社会と言うか、弱い落ちこぼれた人は自己責任が問われる。社会の経済合理性だけで進めば、トンボも路上生活者も、排除される対象になる。蛍やトンボは情緒的に守るべき物と捉えられているが、大型機械稲作が進めば、共存できないものとなる。ホタルは良いもので、路上生活者は悪いものと、仕分けできるものではない。格差社会が進む事は、路上生活者の増加になる。経済至上主義になれば、ホタルもトンボも居なくなる。

路上生活者を目障りなものと考えるのでなく。どうすれば路上生活者が存在しない社会を作れるかを考えなければならない。弱者に対して、自己責任を問うだけでは、何も解決しない嫌な社会になるばかりである。嫌な物、困った者を排除するのでなく、何故だろう。どうしたらいいのだろう。このように子供たちが共々考える為にも、目に触れないように囲い込む考えは、悪い結果を産むだけである。上手く共存して行く智恵が社会には必要だと思う。小田原でも、路上生活者への襲撃がある。花火が投げ込まれたり、大きな石が放り込まれけがをした人もいる。問題になっている橋の所でも中学生が花火を投げ込んでいる姿が目撃されている。そうした事を子供たちが行うようになってきたのは、大人たちに排除の気持ちが強まっているという事があるからだと思う。

以上のように私の意見は論理にもならない、ある意味、感情的なものように思いますが。もし自然保護の団体が、路上生活者の排除を行うなら、それは自然保護の名に値しないと思います。これでは日本中で起きている公園からの排除と同じ考え方です。自然環境だけを尊いものとする、狭い視野の活動では、結局は経済至上主義の中では淘汰される自然になります。世の中全体の方向を変えなければ、自然保護もできないはずです。自然保護の美名で、路上生活者が排除されるとすれば、経済至上主義の思うつぼです。結局は相打ちにされ、両者ともにつぶされる事になるはずです。こうした自然保護思想は、経済の中でほどほどに許される範囲の、囲い込み自然保護と言う事になり、一方で全体の自然が崩壊して行く事には目が向かないことになる。何故自然保護をしなければならないのかの根本を考え直してもらいたい。

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