日本的農業形態

   

稲作の専業農家であれば、忙しいのは田植えと稲刈りの頃の2ヶ月だけである。後の10ヶ月はやることがほとんどない。専業農家であれば、野菜だろうが、果樹であろうが、作業の集中は極端なものである。うまい組み合わせで作業を分散することが当たり前になっている。例えば、小田原ではお米とタマネギとキューイと菜花とお茶とミカン色々の組み合わせでやる。これを上手く組み合わせると、毎月適度の作業に分散できる。どれか一つがもうけ頭で、収入としては、3分の2を越えてキューイになる農家もあるだろう。タマネギという農家もある。この為に稲作がもうからないとしても、上手く作業の分散が出来るのであれば、やめるほどの意味もないと、考える農家もある。これが日本の農家が独自の多様な作物の経営パターンになった要因であろう。一方に特定の作物だけを作り、作業の無い時期は他の仕事をすると言う形も生まれた。それだけではない、稲作ではサラリーマンの土日作業でも、1ヘクタールぐらいの田んぼが普通に出来る状態である。これらの形が、日本の普通の農家である。規模の割には機械を所有し、化学肥料と農薬の大量使用につながる農業の形である。

一方に農業全体で考えれば、個別農家の経営という観点とは別の、日本国土独特の地域の事情がある。食糧安全保障。水田の多面的環境保全。色々言われるが、要するに日本は瑞穂の国である。だから総合的に水田は残さなければならないと言う気持ち。農家一軒の問題ではなく地域全体で取り組む必要がある。その為には土地制度の抜本的改革が必要になっている状況。農地の所有を、長期的視野で国家のものにすることだ。その前段として解決しなければならない問題は、国と言うものの管理を信用し難い所だ。国がやれば非効率だから、民間化しろという事が言われる。しかし、農用地の公共性を考えた場合、国の関与する制度を上手く作るほかないだろう。農業ほど土地と切り離す事の出来ない産業はない。そして太陽と水だ。農地は急速に減少を続けている。ほぼ半分になってしまった。特に優良農地は、住宅地や工業用地、道路等に転用されてしまった。昔の山間地であれば、日当たりのよい所は畑にしていた。今は一番日当たりのよい所に家がある。農地はないがしろにされている社会状況がある。

農地を納税の手段として認めることだ。税収が一時的に減少するかもしれないが、農業の持つ価値を国が本当に考えるのであれば、決して無駄にはならない。農地の相続をしながらも、都会に生活する人間には負担感だけという事がある。安い納税の査定価格であっても、手が離れるのであれば整理したい人は多いはずだ。しかも、その農地が国家の為になることであれば、進んで納税の対象にする人もいるのではないか。国家が所有した農地を、いかに活用するかである。農業は永続して行わなければ、出来ないものだ。土壌を育てるなどと言う事を何世代もかけて行ってきたのが、日本の農地である。親子3代かけて作った棚田。等と言われる所が放棄されているのだ。いつ返さなければならないか分からないという土地では、どうしても収奪的な農業になり、多面的な環境保全にはつながらない。国民全体が納得が行く農地管理が行われる事で初めて、農地の国家所有の意味が出てくる。

民主党の3候補が、愚にも付かない農政改革を主張している。何と言う事かと思う。こんなことでは民主党は戸別補償で農家の側に立てば支持されると考えるのは、大間違いである。戸別補償政策が何故成果が出なかったのかの、反省の上に新しい展望を主張しなければダメだ。全農改革も何が自民党と違うのかがよくわからない。土地制度に触れずに、日本の農業の将来像を考える事はできない。中国は土地の個人所有ではないという所を、上手く運用することで、急激に経済成長を達成している。勿論その為の個人の権利と言う物が軽く見られている。戸籍の問題や、マンション不動産投資の問題などにも及び始めている。この土地制度の問題点と、有効性を研究してみる事が、将来の農地のあり方に参考になるのではないかと思う。

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