競争をしない生き方

   

自給の基本にある考え方は、競争をしないという事ではないだろうか。競争をしなければ人間は努力しないという事が、昔から言われてきた。それは人間を労働力としての切り口から見たときだけの事だ。絵を描くときに人と競争して何か意味があるのだろうか。人よりうまいとか、人より評価されるとか、絵が売れるとか。そういう事は絵を描きたいと言う思いと関係がない以上に、絵画することをゆがめている。絵を描きたいと言うのは、自分と言うものが見ている世界、感じているものを、画面に表現したいと言う事だ。画面で表現しながら、自分の奥底の世界を確認したいと言う事なのだろう。そいう事を人と競争しても始まらない。所が、デッサンをして上手であるから、美術大学に合格する。コンクールに入選すれば、競争に勝った事になる。文化勲章が目標と言う事なのだろうか。評価され、上手であるという事は、人が絵を描くと言う事と何か関係があるのだろうかと思う。

物を写す力量があると言う事は一つの特徴ではあるだろう。しかし、絵画するという行為全体からみれば、殆どどうでもいい事になる。そういう上手な器用さと言うものは、あろうが無かろうが、芸術としての現代の絵画に於いては意味を成さない。勿論、商品絵画と言う範囲に於いては、あるいは美術品というジャンルに於いては、重要な要素ではある。そういう事と芸術を混同しては間違う。似ている事なので、つい関連していると思いがちであるが、全く無関係と考えた方が分かりやすい。勿論、商品として、あるいは美術品としては別の事で、競争の世界である事に違いはない。自分の絵を描いてみたいと言う人が、つい、商品絵画や美術品としての絵画をやりたいのか、芸術としての絵画をやりたいかを混同してしまう事は情けないだろう。自分がやりたい事が何かをよく考えてみれば、自分自身を深める芸術的探求以外は、無意味であると思わざる得ない。しかし、自己探求は、尽きる事がない努力の世界である。それが、競争が無ければできないと考えるのは、人間をばかにしている事になる。

絵画と言う事で、少しわかりにくい事になるが、自分が食べるお米を作るにしても、他者との競争と言う事ではない。自分にとって良いお米を作りたいという事に尽きる。その結果は世間と比べる事が出来るかもしれないが、そこまでの事だ。一般の農法のお米よりおいしくて、収量が多いということは、自然農業が一般の農業に勝っているという証明にはなるが、競争とは関係がない。お米を経済の競争の中で考えれば、世界の経済の合理性だけが価値基準になる。これは自給とは関係のないことだ。自給は自己新の思想である。競争をしなければ人間は能力を伸ばせないと考える人は、労働力と言うように人間の能力を利用価値で考える人だ。人間を対価が無ければ、努力が出来ないと考えている。実は対価のあるような努力は、まだまだ大した努力ではない。そういう事は、弓を見て、何に使うものかさえも忘れてしまった、弓の名人の話として中島敦が書いている。

人間が本当に力を発揮できるのは、自分の為ではなく、人のために働く時だ。分かりやすく言えば、親は子供のためなら最大の努力ができる。自分の為だけに競争している人は、まだまだ本当の力が出ていないとも言える。これが人のために頑張れるようになってくれば、努力の方向が正しいという事になるのだろう。人類の為を自分の目標に出来れば、自分という小さな枠を超えた努力が出来るものだ。しかもその努力は楽しい、張り合いのある努力となる。楽しい頑張りだからいよいよ頑張れる。その頑張りの結果が人と比べて見劣りしても、一向に関係がない。すべては自分自身の事だ。人間は何とか日々生きていければそれ以上の事はない。その日々生きているという事を頑張れるのは、地場・旬・自給と言う、自分の行為が見える世界で生きているからではないだろうか。

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