菅原文太と高倉健
田ノ原湿原 中判全紙 インドの水彩紙の調子に支配されて描いたような絵だ。インドの紙は、ヨーロッパの紙にも、和紙にも無い独特の物がある。インディアンペーパーという言葉を聞いた事があるが、インドにも伝統の紙があるのだろうか。
やくざ映画の2大俳優が相次いで亡くなられた。しかし、二人ともがやくざ映画から足を洗ってから、むしろ人間としての評価が高まったという所が素晴らしいと思う。2人の名優の後半の生き方は、対極的である。高倉健さんは高倉健という映像の姿を全うしようとでもしているように、深く映像の奥に沈潜するような姿であった。高倉健に日常というものがあってはならないというような、虚像のままに生きる事が、自然に人間高倉健という人を深めて行ったように見えた。それが、俳優としての高倉健という姿に、奥深い演技をさらに加えたように感じた。一方、菅原文太さんは俳優業から、農の実業に暮らすという事を選択した。テレビが追悼で、沖縄知事選での応援演説を写していた。政治的にも積極的に参加して発言をしていた。その姿は日本を愛するあまり、黙ってはいられないという気迫が感じられた。こういう生き方は日本では案外に珍しい。高倉さんは勲章をもらい、菅原さんはもらっていない。
菅原さんがゲストと話す「日本の底力」というラジオ番組を時々聞いていたのだが、愛すべき日本というものがどういう国で、その国がこのままでは終わってしまうという危機感を、常々語られていた。その為には、菅原文太という役者を利用できるならしてやろうじゃないかという位に、本気度があった。暮らしの地点からの日本の見直し。私は小さく同じ道を歩んでいるんだなあー、と感じていた。日本の底からのやり直し。それを、自分はその辺の養鶏屋の一人として、やっているんだなあ―と思った事がある。意見というのは様々であるからこそ意味がある。無数の違った意見が並列されて、そして全体というものが浮かび上がってくる。菅原さんのように目立つ存在も必要だし、目立たない砂利の一つとして、存在することも意味があると思う。それもあって、こうしてうとまれる事もあるようなブログを続けている。
菅原さんが農業を始められたのは、2009年からのようだ。農業を行う事で人間が再生されてゆくという事はあると思う。ヤクザ映画をやっていたと言う事もあって、ヤクザとの交遊などもあり、粗暴な国粋主義者というな、鶴田浩二系列の人というように見られがちであった。ホリエモンの自民党からの立候補に激怒して、対抗馬の亀井静香氏を応援したりした。しかし、農業を続ける過程で、考え方が日本とはどういう国なのかという所に、深化して行った気がする。80歳になっても農業をやろうという事がすごいと思っていたが、農業が70歳を超えた人間をすら深めてくれるという事を目の当たりにした。それは福島原発事故というものも、大きな契機だったという気がする。この事故をどう自分の生き方として受け止めるのかという事は、誰にとっても大切である。多くの政治家がボランティアに行ったという報告はするが、丸で自分の生き方には反映しないという事が、偽物が横行している感じがする。
菅原さんが早稲田大学を中退して劇団四季に入った人だったという事を初めて知った。恐れなく、自分の道を探し続けていたのだと、だから80歳の農業の道を選んだ。65歳の私に既に、新しい道を模索する何かが無い。この後絵に専念しようとしている。その意味で言えば、高倉さん型の類型なのかもしれない。このまま良い老人になりかねない。それだけは嫌だ。迷惑な奴でも菅原さんの生き方から学んで、自分なりの日本の未来を考えてゆきたいと思う。菅原さんの生き方は、日本人みんなが学ばなければならないと思う。トラック野郎のように、計算ではなく気持ちで、愛する日本の為に、農業に飛び込み奮闘する。トラックを軽トラに変えて、軽トラ野郎は突きぬいて80を越えても農業に生きた。その生きざまを学ばせてもらいたいと思う。良いお年寄りにはならないぞ。