あせっている絵
山北の畑 中盤全紙 このあたりの放棄された畑は良く描くのだが、大抵は小さい画面である。私としては、中盤全紙という大きめの紙で描いた。
第16回の水彩人展が終わった。6000人の入場者があった。一時9000人を越えたこともあったのだから、多かったとは言えないが、公募展になってからでは一番多かった。すべてを傾けて、展覧会の開催が出来たことは手ごたえのあることだ。絵に関して色々の事を話してもらえた。その中でも、ズシッときたのが「あせっているんじゃないか。」という松波氏の言葉だった。いつも、鋭く、正確な意見を聞かせてもらえるのでありがたい。確かに私は焦っているようだ。65歳に成り、時間が無いという意識に成った。ボケてしまう前に、結論を出したいとあせっている。焦ってどうなるものでもないことは分っているのだが、気持ちが焦っている。昔からのんびり絵を描いている事はなかった。私という人間の存在の意味は絵にある。立派な絵を描くから、私という人間の存在に意味がある。こういう圧迫してくる気持ちを抱えてきて来た気がする。そんなことは見苦しいことではあるのだが、そういう、あさましい気持ちで生きているのが私の人間の現実の様だ。そこを抜け出られないというか、圧迫の中でジタバタしている。
ただ絵を描いていられればそれでいいという気持ちには、ほど遠い心境である。たぶん、私の様な人間には生涯そうい言う境地は縁遠いいのかもしれない。ダメだなあ―と同時に、これでやってゆくしかない。焦りというものが、どういうところからきているのか。自分の絵が、自分の見えているものに到達していないという意識だろうと思う。私に見えている現実の世界に比べて、絵がちゃちなものだという意識である。自然の持っている摂理の正しさ、深さが、ある時眼前に立ち現われてくる。その決定的な感じは、圧倒的なものだ。それは特別のことではないのだが、誰もが花を見て美しいという様な感じを受けるだろう。そのことなのだが。その美しいということを絵にすると、絵は別ものに成ってしまうということである。何故、あのすごいなーという自然界の感じを、絵に出来ないかという焦りである。見えると言うのは、自分という人間の眼である。見えるには、その人間のすべてが反映されて見えるのだと思う。赤ちゃんが物が見えると言う時には、まだ意味を伴わない。大人が見えると言うときには、意味が大抵は伴っている。
私が田んぼを見れば、何俵採れるとみる。この葉色が何を意味するかをみることに成る。そして絵を描く眼で世界を見ると言うことには、絵を描く人間としてのすべての反映として眼前の世界を見ている。絵に目的があるということを、否定してきたことがどれほど意味があったのか。宗教画は宗教の思想を絵にするという目的がある。時代時代の要請に従って描かれてきた絵画が、その時代の絵画なのだろう。純粋芸術という近代以降の絵画理論からすれば、目的のある絵画というものが芸術的ではないと否定された。近代絵画では、絵は絵としての完成を目指すべきだ。何かの用に立つものは、建具の様な工芸品だとされた。私もその考えで絵画を考え、制作しようとして来た。しかし、純粋絵画であればあるほど、社会の現実から遠のき、私絵画に成る。私絵画で構わないという考え出来た。ところが、いよいよ自分の結論を出す年齢に達したと考える様に成ってみると、絵の役割ということから離れられない。あさましさである。焦りである。
眼が到達した領域を、画面に表わしたいと考える。表れなければ絵ではないと考えている。ところが現実の絵は、絵であって、眼前の世界とは大きな距離がある。あの見えている世界を描き表すことが、自分の絵だと思うし、役割だとも思う。畝どりできるなと見えているものが、絵に成らなければ、嘘に成る。さらに言えば、「地場・旬・自給」が軟着陸地点であるなら、その軟着陸地点を感じさせるものに、絵が成っていなくてはおかしい。それが絵はポスターでもいいのではないかという考えに成った。もちろん絵はポスターではない。ポスターでいい訳がない。私の場合、絵が出来ないのだから、ポスターに甘んじるしかないのではないかということに成る。ポスターという意味は、絵が哲学や、感性や、思想を表現するものであるなら、私の場合、「地場・旬・自給」の世界を絵にするということに成る。自分の絵に関しては、学ぶものが多かった16回展であった。17回展は事務所を担当させてもらうつもりだ。