加藤百合子 エムスクエア・ラボ代表
塩山桃の里 中盤全紙 満開の頃の華やかさは、格別である。今年も行こうかと思っていたのだが、大雪があって、甲府盆地は大被害を受けた。気が重く成って行けなかった。
加藤百合子 エムスクエア・ラボ代表の稲作に関する意見が、日経新聞に出ていた。生産者は消費者の目線に立ち、自由な発想をしなければ生き残れないということを書かれている。全くその通りだ。しかも、新鮮な発想が書かれていて説得力もある。一見正論の様にも読める。しかし、農業者として稲作をする観点から、この意見を読んでみると異和感がある。稲作は品種改良で、この異常気象に対応できている。しかし、野菜はそうした品種改良が遅れているので、対応できないと書かれている。中々、専門家風の意見ではある。稲の気象の影響と、レタスの気象の影響を連動して考える等、農家でそんな人は一人もいないだろう。レタスは特定の時期の湿度は大問題に成る。稲には湿度の影響は少ない。当たり前だが、異常気象の影響も作物によって変わる。又、野菜や果物の品種改良は、糖度を上げることにこだわる嗜好、流行の影響が強いために、栽培が困難に成っている。そのことが、病虫害の影響をより深刻化させることに成っている。
お米の意味をどのように考えるかである。商品としてのお米の見方では、こんな目線でお米を見る必要があるのかという面白さがある。250グラムでは味見にもならない。お米お混ぜて炊くことになり、味見ができない。このようにも書いているが本当だろうか。1回250グラムでお米を炊く人も結構いると思う。一人暮らしの広がり、そんな量しか一回に炊かない暮らしもある。味見ならそれでもいいはずと思うが、違うのだろうか。1キロ袋が味見にいいと言う意見のようだ。加藤家では5合の電気がまを使っているのかな。一キロお米は200円から1000円ぐらいだから、確かにこの売り方がないわけではない。問題は重いということ。重いというのは、どこで売るかにかかっている。スーパー販売なら、その気持ちで来ているから重くない1キロ。フリーマーケットなら、250グラムも荷物に成る感がある上限。臨機応変ではないだろうか。
大規模化の成功事例として知られるある農業法人では、すべてのトラクターを毎年買い替えるそうです。トラクターの故障で生産計画が狂う場合の損害額と、(新型トラクター購入費用)-(中古トラクターの売却価格)を比べると、前者のほうが大きくなるというのがその理由。成るほどすごい考えだ。朝給食ではなく朝カフェテリアにして、地元住民に学校を開放するのはいかがでしょうか。生徒だけではなく、大人たちも手軽に学校で朝食が取れる。そんなアイデアでお米の消費拡大が可能なということなのだろうか。最近はあちこちでご飯の朝食セットが300円とかで食べれるが、朝カフェテリアが経営可能とは思えない。加藤氏の農業全般に関する意見を読んでいると、違和感はない。所がお米の問題になると、急にアイデアに無理が生じる。どれほど経営的発想の豊かな人でも、お米を経営からだけ見れば、止めることが一番ということに成る。そんな状況だから、西川農水大臣のように、アメリカに輸出するから大丈夫だという様な、めちゃくちゃな主張が生まれる。
お米は商品ではないということを国民の総意にしなければならない。一つは、主食というものは、日本人の暮らしの根幹にあるという認識。安全保障ということに成る。国防であり、防災である。日本にはお米の安定生産が不可欠だということを前提にしなければならない。次に日本の国柄である。日本という国がどこに向かうのかである。漂う船のように流れに任せればいいというものではない。日本人の総意として、どんな国に成りたいのかを常に確認する必要がある。この点では、珍しく安倍総理に同感する所で、「瑞穂の国、美しい日本」である。瑞穂の国の国柄を、具体的にどうすれば作れるかである。田んぼのない瑞穂の国などあり得ない。毎年トラックターを買い替える様な稲作は、瑞穂の国の稲作とは思わない。遊牧民にとって、羊や馬が単なる商品ではないことを考えてほしい。同じ農産物でも、お米は違うという認識を国民全体が持つ必要がある。