10万年の迷惑
妙義山 10号 とても不思議な山だ。なかなか良い描く場所が無かった。
原発が、いよいよ再稼動されそうだ。鹿児島川内原子力発電所が、安全審査に合格して、再稼働に入りそうだ。日本のリスクが一つ増加した。世界が脱原発に向かうことは、間違いのないことだ。これから、技術を持たない国が、原発の稼働を始めるだろう。技術立国と主張してきた、先進国のはずの日本ですら事故が起きた。間違いなく世界のどこかで原発事故は起こる。そうなって初めて、世界は原発の問題に気付くことになる。温暖化現象と一緒のことで、この時始めて先進国は脱原発を主張し始めることになる。たぶんそれまでの余裕が10年あるのか、どうか。これも世界崩壊の一つの兆候かもしれないが、何とか軟着陸するためには、自然エネルギー技術への転換である。技術の歴史を考えれば、未来の社会が原子力エネルギーでないことは、明らかである。自然と融合した技術が未来技術であることは当然の帰結だ。日本の企業が先を見る野心を持てないということが、実に残念だ。
日本は起こるべくして、原発事故を起こしてしまった。そして、現政権は愚かなことに目先の景気だけに、目を奪われ、40年の耐用年数の近づいている発電所の再稼働に莫大な費用をかけている。輸入原油の代金に、経済がつぶされそうという当面の経済界の苦しみからの、ごり押しの言い成りになっている。企業のちょうちん持ちのような安倍政権では当然のことかもしれないが、もう少し先を考えてみなければならない。米百俵の小泉さんを思い出すが、この先の世界を思い描けばだれにでも分ることだ。もう一度、世界のどこかで原発事故が起こる可能性は高い。賢明な先進国から、脱原発をせざる得なくなるだろう。その時の技術こそ、その国の産業になる。このように考える人がいた国こそ、次の技術大国になるはずだ。今のところドイツなのかもしれない。日本は原発大事故を起こし、国民の大半は自然エネルギーへの転換を望む、土台ができている。
私達21世紀の人類は日々の電気という便利のために、10万年未来の人類にまで、迷惑を及ぼしている。もちろんそれは、人類だけでなくあらゆる生物への迷惑である。果たしてこういう人類の生き方が、許されるものなのだろうか。20世紀、21世紀の人類は、地球環境を激変させるような、様々な環境汚染を行ってきた。すでに、温暖化現象は気候の激化となって日々の暮らしにまで影響を与え始めている。様々な合成化学物質の増加で、大気や水への影響も、深刻さを増している。しかし、こうした地球環境全体の危機の中でも、原子力というものの深刻さは、他の様々な要因より、具体的かつ、深刻さで圧倒的な形で、人類の文明を問いただしているのではないだろうか。昨日新しく出来た、原子力規制委員会から、川内原発の再稼働が、容認された。このことは、3,11福島以前の科学倫理に従い、再稼働が審査され、少しの疑問は残したが、許容範囲の安全が確保されたという判定である。
この再稼働への政府の熱意の最大の材料は、経済の問題である。日本が経済で負ければ、さらに大きな不幸が日本という国に起こるだろうということだ。電気が止まれば、病院で死者が出る。安倍総理大臣も述べたし、今でも多くの人がそのように主張する。企業の電力価格は30%も値上がりし、日本国内での企業活動は不可能になろうとしている。こうした主張も良く聞く。多くの日本人が、確かに原発は危ない物のようだが、今日の暮らしが少しでも豊かな方が良い。こうして、原発に関する思考を停止しようとしているのだろう。中国などの経済で追い上げてくる国は、環境汚染対策もなおざりにして、原発の推進にも熱心である。こうした国との競争の中で、原発という、重要な武器を捨てることなど出来ないというのが、経済競争から出てくる結論となるのだろう。問題にはそこそこ目をつぶり、現実に目を向けろということになる。
しかし、原子力というエネルギー手段が、人類文明にとってどのようなものなのかという、福島事故で問われた命題には、まだ回答が出た訳ではない。そうした問いかけ自体が、喪失され始めている。それが人類という総合的な生命の宿命なのかもしれない。知性とか頭脳を持った生き物ではあるが、楽をしたいという欲望には、知性は勝てない。石油文明というべき時代が現在の資本主義社会を作り出した。これは資本が労働力を対価として判定する考え方である。人間というものの価値を、利用価値で、つまり能力で計る考え方である。