生活と自治 4

   

乗鞍岳 10号 乗鞍には子供の頃から、何度か行った。ずいぶん景色も変わった。

生活クラブの発行している「生活と自治 4」に農の会のことを取り上げていただいた。上垣喜寛さんというフリーライターの方が記事を書いている。写真は越智貴雄さんである。力のある文章と写真で驚くほど良い記事に成っている。農の会のことを大げさでなく、正確に記事にしていて、その上で良く実情が伝わるように書かれている。農の会は様々な角度から、自分流に分析することは可能だと思う。研究論文として何人かの人も取り上げたが、成功した文章は読んでいない。いくら分析したところで、何の為の分析かが社会的な意味で、あまり有効なことにならない。上垣さんの文章で一番興味を持てたのは、食の域内循環の意味が、しっかりと押さえられているというところにある。「失望からの再出発」とされている。原発事故前、原発事故後で、農の会の意味は変わったのだと思う。3年前をまざまざと思い出した。

生活クラブで思い出したのだが、10年ほど前生活クラブの新横浜の施設で講演をさせてもらったことがある。安心安全から、地域主義へということだった。生活クラブが安全な食ということから始まった消費者運動であろうが、自分が良ければいいという話では、社会運動として限界がある。どうやって、社会全体が良くなることが出来るか。この視点に立てば、自分の生きている地域を、少しでも変えることが重要ではないかという問いかけをした。その時その意味はほとんど伝わった感じがしなかった。消費者でいることは、問題だという話を、生活クラブでしていたのだから、筋違いだったかもしれない。当時も生活クラブは反原発には熱心であった。安全な食料をただ、簡単に購入出来ればいいという運動には見えなかった。いずれにしても、生活者というものが、分断され、運動体に成れない、10年間ということだったのだろう。

放射能で汚染された農地。これだけは、誰にも共通のことである。汚染の程度の違いもいくらかあるのだが、地球全体で考えれば、人類共通に汚染の進む地球の中での人類の生き残り方である。放射能の不可逆性は際だっているが、あらゆる化学物質が生活の中に紛れ込んできて、手に負えない状況が生まれている。それは、自分達だけが、安心安全などという、食のシャルターに逃げ込むことが無駄なことで、この事態に正面からぶつかる以外、道はないということだ。文明の方向の問題なのだ。20世紀後半からの、グローバル経済という、利益を求めて競争に勝たなければ、すべてを失うという、富の集中が始まる。この経済競争の激化が、人間の生き方を狂わせてきた。日本はこの競争の優等生として50年やってきて、豊かな社会というものを得た。その基盤に、何の為に生きるのかという大切な部分が、競争に勝つためが正義という考えに、浸食されてきた。生きるということを自分の手に取り戻す、手段としての自給。

農の会の表面的には、楽しい自給農業の背景にあるものは、実は深刻で、それぞれの生き方の大切な所に触れているものだと思う。良くある市民農園と、あしがら農の会との違いは、一見なにもない。この違いに気づかない人には、自給などくだらないことに見えて、グローバル経済の末端に組み込まれる。あえて、したたかに自給を貫く為には、個々人の実力に応じて、助け合いながら、志のある自給を育てる必要がある。新しい村づくりなのだ。農の会が何とか原発事故で、途切れなかったのは、やはり力のある地域の農業者に助けられてきたからだ。これから、始まる農業の崩壊現象の中で、どうやって助け合って生き残ってゆくのか、「せめて自分の食べ物くらいは自給したい。」この背景にある、広大に広がっている、人間を経済の一コマに組み込んでゆく仕組み。一角を切り崩し、自分達の足で立つ暮らし。大げさなようだが、そういう切羽詰まった所に居るという認識がある。

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