マチスの最後の絵
志賀高原木戸池 10号 木戸池で学んだことは、絵を描く側の立ち位置を変えられるということである。前を向いて描いていて、いつの間にか、後ろ向きになって絵を続ける。この面白さは、木戸池で知った。
マチスの最後の絵は1953年のカタツムリとされる。ロンドンのテートgalleryにある。大きな絵で286×287センチである。86歳で亡くなる前年にしては、実に大きな作品である。晩年のマチスは足を弱らせていたから、動き回らなくても良い、小さな作品を作りそうにも思えるが、むしろ大作は晩年に目立つ。晩年の代表作といっても良い、作品が南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂。車いすに座りながら、長い棒の先に筆を付けて、壁画を描いている写真がある。礼拝堂には2度行ったことがある。マチス芸術の意味が礼拝堂の中に何時間もたたずんでいると、少しづつ理解できた。光に包まれるという意味である。マチスには明確な絵画的ビジョンが存在して、誰にでも自然にそれを体感できるような芸術というものに、晩年になると、ますます純粋化されてゆく。この人は腕で描くのではなく、頭で絵を描いている。技術的なことに関心がなかったということがすごい。そもそも絵画とはそういうものだろう。
マチスは若いうちから、色彩の響き合いのなかに、自分の美術的興味のすべてが表現できると考えていたのではないか。色の組み合わせで出来ないことに興味があなかったともいえる。絵画の芸術的役割を、マチス自身が出来ることを割合狭い範囲に、限定して考えることが出来た。良く言われる芸術の安楽椅子論も、とても狭く考えれば、筋が通る。誰もがというより、マチス自身が楽しめるのかということに徹しているのではないか。そのために、絵を描くときにとらわれるやすい、形を取るデッサンとか、画面におけるバルールとか,画面の中の空間感のようなものを、気にかけずに済んだのだろう。いわゆる絵画教育のようなものをやらなかった良さだろう。大抵の絵画を目指す人が、出来ないことを絵に求めたり、絵画の目的を過大に考えたりして、結局自分がやるべきことを見つけられずに終わることと、対極的である。光の響き合い以外のことに関心を持てなかった。それはとても強い意志のようにも見えるが、むしろ、そういう変わった性癖の人だったのだろう。
光の響きの操作に限定して考えていれば、当然色紙の切り絵に興味が進むのは必然のことだったはずだ。作品も、大きくなければその意味合いが実現できない。切り紙の作品も様々なパターンを経るのだが、カタツムリに至ってその結論に至ったと言える。カタツムリで分ることは、カタツムリのデッサンがあるということ。カタツムリの意味に何かあるのだろうか。良く分らない点である。この絵を見る場合、一枚目の色紙がどこから張られたかを考えなくてはならない。そして、2枚目、3枚目とマチスの制作の流れに沿って、一緒にこの絵を作り上げてゆくことになる。この芸術的な制作過程を含めて、絵の世界が出来上がる、喜びをマチスとともに経験できるようになっている。この絵を40年前に見たときにそういうことを思い、私も切り紙の習作を始めた。その後、テートgalleryでは、ワークショップで、誰でもがマチスと同じような切り紙体験が行われていることを知った。
マチスの絵は、私絵画の入り口だったのではないか。誰でもが引ける線で絵を描く。誰でもが塗れる方法で、絵を作る。作品が客観的価値として、どこかに存在するのでなく、描く人自身の内的な輝きの気づきになるものを目指す。マチスは、熟練の技ではなく、誰にでも可能な手法によって、出来る絵画世界を探したことになったのではないか。マチスはそういうことを意識したことはなかったとは思うが。しかし、動かなくなるからだでも、やれることを探し、良く見えなくなる目でも、やれることを探し、その結果が、カタツムリの絵に至ったのではないだろうか。当たり前の美術的な世界を当たり前に探求を続けたマチス。今絵画するものの幸運は、マチスのやってくれたところから、始められることにある。美術が普通の人のものに成ったということ。