水彩画教室 7
西伊豆から見た富士 10号 高い所に富士がある。雲が出て一旦隠れると、次に出るときにはまさかというほど高い位置に富士山がある。
絵は自分の見ている世界を表現しているものである。その表現しているものが、社会的であることを求めた時代もあるが、現代の社会に於いては、むしろ描く者自身の問題として、絵は存在しているのだと思う。絵のそうした置かれた状況を「私絵画」と呼ぶことにした。そう決めてしまった方が、絵を描く目的や本質を自覚できると考えているからである。そういう傾向を修行という風に呼ぶ人も最近はいるようだが、それでもいいのだが、むしろ生きる充実のようなものを絵を描くということに求めているのだという気がする。20歳くらいのときは、絵というものを、何かに役立つ手段として、模索していた。その結果として、最初にたどり着いた考えは、絵を生活の中に置かせてもらう。そしてその絵が、日常的に目にふれられて、見ている人に影響を与えるという道具である。ところが、その為には描かれた絵が、人に影響を与えるような価値あるものでなければならない。自らの表現内容の至らなさに気付いた。
次に考えたのは、絵を描くということを教育の手段にするということであった。社会が成長して、まともなものになるためには、教育が重要だと考えるようになった。絵を描くということで、自分の心の豊かさのようなものが、広がる。いわゆる情操教育である。このことは美術の講師に成り、実践もしてみた。たまたま、受験に力を入れている学校で行う、美術の授業という立ち位置は難しかった。どの程度できたのかは分からないが、教育を行うということ自体で、自分が疲れてしまった。やはり自らの内側に伝えるべき充実がないのに、人に教えるということは望ましいことではなかった。一切を振り切るような気持で、すべてを変えてみようということで、山北の山の中で自給生活を模索することにした。自給生活の中でも、絵を描きたいということは変わらなかった。むしろ絵を描くという意味を洗い直すために、自給生活をやっていた。自分が食べ物を食べて、生きているなら、その食べるものを全部分の作ったものに変えれば、自分という人間も変わるかもしれないと、あのときは本気でそう思ったのだ。
それから25年。自分の為だけに絵を描いてきたことになる。個展の様作品の発表はしないことにした。その意味が全くないからである。作品の発表ということでは、水彩人だけは真剣に続けてきた。水彩人は研究会だからである。自分の絵を他の人と並べてみることが、自分の研究には重要なことだからである。絵を描くということは、すぐ独りよがりになる。自分だけが正しいということになりがちなものだ。それでも、少しづつ自分の絵というものに、近づいてきているという気がしている。大したことではないのだが、ああいうことも、こういうことも自分のやるべきことではないという感じがしてきた。良い結果を出す為に描いているのでもないし、もちろん評価される為でもない。すべて興味があることを興味ああるだけあれこれやってきた。これが少し、整理されてきたという感じがする。