道徳教育と二宮金次郎の復活

   

飯綱高原 10号 知り合いがペンションをやっていたので、よく描きに行った。最近は行っていない。

教育再生会議では道徳教科の教科として提案し、現在道徳教科が義務教育では行われているが、果たして現実にその成果はあったのだろうか。道徳教育というものには、二宮金次郎や、野口英雄も登場している。つまり道徳といったって、何を教えたらいいのか分らないもので、二宮金次郎の登場に成る。両者とも児童労働の問題を抱えた人だ。貧困の中で育ったが、ひたすら働き、名を上げた人物。果たしてそういう人が道徳にの手本に成るのだろうか。むしろ、児童労働をどうやって防ぐかの題材になる。こんな内容が日本の道徳だということを世界からの目で見れば、信じられない内容に成る。別段世界の価値観とづれがあっても良いのだが、戦前の道徳観に戻ろうというのでは、道徳教育の成果など上がる訳がない。

お茶の水大学が国からの委託で行った、両親の経済力が子供の学力にどう関連するか、調査の結果が出た。やはり、学力と経済力は連動しているということである。想像はされるところであるが、最近の家庭一丸の受験というような世相では、掛けられるだけお金をかけなければ競争に勝てないということなのだろう。つまり、経済的余裕ある等というレベルではない、韓国的な状況に近づきつつあるということなのだろうか。つまりこういう社会的背景のなかに置かれている公立の小中学校は、受験とは距離を持った存在。はっきり言えば受験とはかかわらない存在になっているのではないだろうか。そうでなければ、親の経済力が受験に影響するという理由が不自然である。学校とは別の所で、受験教育が行われていて、その出費に親の経済が耐えうるのかどうかで、子供の受験競争に反映する。

学校教育で一番重要なことは、受験競争に勝つことだ、とは言わないで、お金がなくても本人の努力しだいで、乗り越えられるという先例を学ばせておこうという、先見の明のつもりだろうか。二宮は農民出身でありながら、封建時代に地域の財政立て直しを頼まれている。報徳仕法に基づいて荒れてしまった、たぶん木枯らしが徘徊していたあたりだ。農村再生は全くの成果がなかった。しかし二宮氏の考え方は、上に立つ者には実に都合のよい考え方である。みんなが金次郎なら、国は何もしないで済む。それが明治時代の国家思想に上手く結びついた。小学校に金次郎の像が建てられていった。本来なら忘れたい過去である。ところが、小田原ではさすが生誕の地でもあり、今も評価が高い。しかし、政治の上に立つものが、二宮氏を持ちだす裏には、願いと、思惑がある。国家主義の中での国民の在り方に最もふさわしい姿なのだ。忍耐と、努力。で困難を乗り越える。

もう一点大きな問題がある。少年労働の違法性である。世界では若年層の労働に関して厳しい目がある。世界から見たとき、金次郎を評価する日本の在り方がどう見えるだろうか。日本はずいぶん特殊な方針な国と見えることだろう。何故こんな愚にもつかないような道徳教育が行われることになるのだろう。日本の焦りなのだろうか。こんなことをやるより、農作業を教育に取り入れた方がいい。義務教育というものが、日本人として生きるために誰もが知るべきことを教えているとするなら、食糧自給の基本は義務にふさわしいものではないだろうか。道徳教育は言葉から入ったら逆効果だ。行動から入らなければ血肉にならない。そういうことはどの宗教でも示している。教育は自由な人間を作る為の大切な手段だ。教育の結果、反国家的な人間が出てくることも、当然のことだ。抑え込もう。鋳型にあてこもうという教育は、自由な人間を作り出せない。

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