浅田選手の失敗から

   

桂林 10号 手前の家と、遠景の山を強くした。だからどうということではないが、山水の空間というものを色々やってみている。

冬季オリンピックで日本のフィギィアースケートの女子選手が、3人ともうまく行かなかった。期待が大きかっただけに辛いことだろう。自分のことを考えてみれば、失敗を繰り返しているのが、私の暮らしのようなものである。失敗の多くが、恥ずかしいという忸怩たる思いの失敗である。その場の興奮で、言いたいことを言い散らしてしまう性格である。言わなければ良かったという反省。そして、言わないで居ることはできない性格に対する反省。何故、言わずもがなのことを、言ってしまうのかと言えば、相手の行動や、発言の意図を読んでしまう性格だからだと思う。相手の発言には、実はこういう意図が隠されているからだと読んでしまう。その思惑のようなものに反応をしてしてしまう。率直にその意図を述べて、話し合いたいという気持ちがあるので、ついその意図を表面化させようとする。逆にいえばそれくらい世間の関係は、本当のことは隠したまま、関係のないようなことで、意図を通そうとしている。目的のための手段が、思いもよらぬところから現われる。人間は厄介で面倒くさいものだ。そのあたりに我慢ならなくなるのが失敗の原因である。

何故本当のことを話し合おうとしないのかと言えば、日本人の島国での逃げ場のない、生き方なのだろう。それが保身のためには必要だということを、社会で暮らして、世間から学ばされるのだのだろう。私の場合独立生活の、自給ということで、世間というものにあまり関与してこなかったので、その辺でどうもおかしくなるのが、常である。これから1年、自治会長の役割をこなさなければならないので、大いにそのあたりを注意しなくてはならない。失敗から学ぶということが言われる。失敗は成功のもととまで言われる。失敗は発明の母。確かに、中山教授でも、古保方晴子さんのような世界最高の科学者に成るには、失敗の連続の末に大発見にたどり着く。凡人なのだから、愚にもつかない同じ失敗を繰り返しているのは当然ともいえる。農業をやっていると、成功ということはほとんどないと言える。失敗の程度の違いである。なるほどこれかと反省し、大発見した気分で、今年こそ反省に基づいて、これでと考えてやってみている。ところがやっぱり違う。

自然の摂理というものが巨大すぎて、そう単純な計算にはならない。そこで、結局のところ失敗覚悟で試みるということになる。そして、またダメだったかということになる。その失敗の山ずみの中で、もがき苦しみ、恥を忍んで、暮らしてゆく実感。絵にも失敗はあるのかと言えば、失敗というものは一つもない。これが絵の面白いところだ。失敗の仕方が絵のようでもあり、良くならないところが絵であったりする。つまり思惑があるような絵は、絵ではないと思っている。思惑とは、目的である。座禅や、回峰行のような修行には目的がない。目的があっては、道は開かれないという経験がその背景にあるのだろう。公文式ではないが到達点が明確であれば、学習ということははかどる。しかし、目的が見えない状態が生きるということである。金儲けがしたいとか、権力を握りたいというなら、それを人生とするなら結論が早いが、生きるということはそういうことの先にある。絵を描くことも目的が明確であるなら、イラストと考えた方がはっきりする。もちろんその善悪を言っているのではない。

失敗があるということは、成功という目的があるということなのだろう。現状で良しということであれば、進歩もない。失敗したと悔やむのは、成功することだけを望んでいるからだろう。勝負であれば、勝つことに執着する。メダルという、勝ちたいという思いがなくなって、浅田選手は自分の演技が出来た。前回のオリンピックの時も1番に成れると思いながら、失敗に終わった。普通の人は常にそういうものである。勝てないのが人生のようなものだ。私も絵描きで1番に成ろうと頑張った時期があった。一番に成ろうと頑張ることも良いのだが、1番以外の人は1番に成れなくとも生きてゆく訳である。むしろ、その失敗をスタートに自分の生き方が始まる。他の分野で一番に成ろうとする人もいるだろう。それも良いけれど、私は人と較べない自分の中に入っていこうと考えた。自己新の一番深くである。

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