東京都美術館で展示作品の撤去命令
桂林七星岩 10号 桂林市内の岩山である。何十枚も描いた。周辺に人家や道、そして畑もある。山水の中に人が暮らしている。この姿が面白い。
東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めた。撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70)の作品「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種」美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌十六日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。ー―東京新聞
公設の美術館というものが、政治的な主張を持った作品に対して、展示の拒否をするなどあってはならない。それは反政府的であろうが、体制翼賛であろうが、同じことである。このことによって、この団体に対して、次回の貸し出しを拒否する行動を、東京都美術館が匂わせていることが最大の問題だろう。どのような政治的な意図の作品であれ、展示を拒否する美術館が登場したことに、日本の文化意識の衰退を表われてきている。今までになかったことだ。しかし、正直な所こういうことを私が書くこと自体、少し不安がよぎる。そういうプレッシャーの中で、作家は制作をし、発表をしている。会場を次回貸してもらえないかもしれない、という不安。東京都美術館では、そういう雰囲気がいつも付きまとっている。そういう恣意的な許認可権が東京都美術館側に存在するから、都美術館の批判をすることも躊躇するものが出てくる。間違った指示にも従わざる得ない。それではダメだと思うのであえて書く。東京都には抗議文を出した。
今回の事例は、運営要綱の拡大解釈である。これは行政が良く間違える政治の解釈部分だ。例えば憲法を守る会ということでの活動を行政が政治的利用で、禁止することがある。これは、政治の意味を間違えているのだ。公務員はそもそも憲法をを守ることが義務ずけられている。憲法を守る活動は政治活動的ではあるかもしれないが、特定の政党政治の活動ではない。この違いはとても重要なことなのだ。「特定」のと付いている意味は、党派政治という意味である。選挙運動のような例えば、自民党に投票しようと書いてあるような作品という意味である。宗教性も同じで、創価学会に入ろうと宣伝することが許されないと言う事である。政治や宗教性、そのものの主張を制限しているものではない。広く考えれば、政治的でない芸術作品というものはあり得ない。宗教的でない芸術作品もない。自由の哲学や、信仰の願いが作品の源泉になることは、当たり前のことだ。
今はまだ、都美術館での作品の展示拒否の問題である。大半の人には、それほど深刻な問題に見えないかもしれない。美術館は政治的な主張をする場ではない。そういう意見もあるだろう。美しい美術作品を見に行った場で、一方的な政治主張を見せられて、不愉快と思うかもしれない。しかし、作品というものの独立性を、行政的な立場から制限するということは、余程法律に触れるようなことでない限り、避ける必要がある。それが表現の自由を互いに守ってゆく、基本姿勢だ。軍国主義を賛美する作品であれ、展示すべきだ。それが芸術のありようである。政治というものは、すべての人の暮らしを覆っている。政治のありように対して、意見を述べることは国民の義務でさえある。以前、小田原でも遠来のピースウオークの人たちを、拒否した公共施設があった。この時も政治活動の公共施設の使用制限の要項を主張した。しかし、この時はきちっと抗議をして、今後二度と行わないようにすると、約束を交わした。
不愉快だと思う人がいるから展示をしない。ということであれば、たいていの美術展に於いて、不愉快な思いをする。しかし、不愉快と思うことも含めて美術作品の意味合いである。不気味なものや、不潔なものを描き出そうとする人もいる。以前、都美術館でごみを展示して、展示拒否に成ったものはあった。しかし、この時は衛生上や、臭いの問題での拒否であった。心地よいものだけを求めるだけでは、芸術の役割とは言えない。社会に心地よく受け入れられている作品が、いつの間にか消えてゆくということは、美術史ではごく普通のことだ。汚いと捨てられたゴッホの絵が今は評価されている。権力者が嫌うようなものを突き付けてゆく、世間から嫌われるようなものを、表現する。こういうことも芸術の役割の一つである。今、都美術館の展示拒否を見逃すと、いつか自分の暮らしまで、追い詰められてゆくことに成る。だいぶ怪しい世の中に成ってきた。