自然卵と食品偽装
海と空と岸辺 ファブリアーノ5号変形 小さい絵だが興味を持っている。3枚組で描いていたのだが、一枚が見当たらなくなり、現在2枚で描いている。
食品偽装に関して世間が静かになってきたので、書いてみようと思う。問題が解決したというより、飽きたということだ。私は養鶏業を細々とやってきた。当然私の卵も食品である。そして、卵に偽装はないかと言えば、そう言えないこともないこともある。私は発酵利用の自然養鶏ということを表明している。自然卵養鶏ということを主張していた大先輩の中島正さんの自然「卵」養鶏に疑問があり、自然養鶏を主張した。卵をとり、従来あった自然養鶏の方がいいと主張した。そもそも自然農法という言葉がある。有機農業以上の素晴らしい農業だというのが、実践者の主張するところだろう。これもまた厳密にいえばおかしな言葉で、農耕自体が自然とは矛盾しているだろうという考えがある。農産物を山菜のように採取しているのかという話になる。ここは言葉の乗せ換えで、自然の摂理を生かした農業。自然に従った農業。というようなことになる。つまり、有機農業基準以上と言いながら、リンゴの木村さんに自然の基準がある訳でもない。
自然養鶏と言ったときに、放し飼いということは、最低条件だと思う。自然であるならば、ヤケイの卵を探してくることが、厳密な意味では本来かもしれない。平飼いを自然卵養鶏と主張した辺りから、卵の食品偽装は始まる。つまり、自然卵の世界は、まやかしばかりの平飼い養鶏世界になった。有機農研は畜産基準を作る時に、知らない間に平飼いを主張したので退会した。養鶏を始める前に、全国の自然卵と自称する養鶏場をめぐって歩いていた。見せてくれないところの方が多かった。見せてもらっえた所でも、おかしな養鶏がほとんどだった。不自然な、自然卵が蔓延していた訳だ。一番の問題は餌である。輸入の配合飼料を購入して、それを餌に使って自然卵はないだろう。輸入飼料はどういう生産法であれ、自然の基準を逸脱している。のこクズや米糠を混ぜて発酵したものを加えてみたところで、基本は同じことだ。中には自家配合という訳のわからない主張をしている場合も多々あった。自分のお願いした割合で混ぜてあるから、自家配合だという理由など、偽装の発想ではないか。
食品偽装では、旅館やレストランでエビの種類を様々にごまかしていたということがあった。食べ物食べていただくことが、利益優先の発想になったのだ。要領良く利益を上げるということが、高じて偽装に至る。種類のことより、養殖したものか、漁をしたものかを明確にする必要があるだろう。同じ車エビでもそこは違うと思う。同じ有機農業でも、栽培の条件で作物は違ってくる。農の会ではJAS基準より厳しい栽培であるが、田んぼごとにお米は違う。ハザ掛けで乾燥したものと、石油で乾燥したものとでは意味が違うのではないかと思っている。主たる食べ物を自給するということが、優先する考え方だと思っている。自給する以上最善は尽くしたい。卵に於いてはもう販売の責任が取れなくなりそうなので、止めることにした。65歳定年であれば、世間的に許されることではないだろうか。これ以上耄碌して、間違いを起こしたくないということである。食べ物を作り、販売するということは責任の重いことだ。
いつもと同じ結論であるが、食品というものは、本来自給するものである。それをたまたま分けてもらえるのだから、食べる人が自分の責任で調べて、食べるべきものだ。騙されたと言って体を壊すのは、自分の家族だ。賠償金をもらったとしても、身体は戻らない。と言って、自給したからと言って、放射能のようにどうにもならないことも沢山ある。環境ホルモン、化学合成物質。中国からきているだけではない。完全なものなどないということを受け入れる以外に自給すらできない。それは原始から変わることではない。自給する安全の許容範囲を自分なりに決めるしかない。全体が良くならなければ、自分が良くなることはできない。自分だけ安全ならいいということは、許されないように世界は出来ている。私の販売した卵が、販売されている卵では、日本1だったという自負はある。そういうことだから、いつまでも続けている訳にはいかない。