五右衛門風呂炊き当番
白い花。ファブリアーノ、10号大。20分ずつ3回描いたところ。まだまだかかりそう。何か惹かれるものがあるのだが、これではまだ、しかし、自分に近づいて行く何かがありそうな気がする。
向昌院に居た子供の頃は風呂当番だった。焚き火が好きだったから、風呂当番になったのか、風呂当番だったので焚き火が好きになったのかは分からない。山の中の小さな寺では、すべてが自給生活であった。お祖父さんは境川村役場に勤めていた。そして僧侶だった。余分の無い暮らしであったのだが、豊かな暮らしだと思っていた。いまではあの暮らし以上のものはないと思っている。風呂当番はまず水汲みである。向昌院の風呂は家の中にあるのだが、下駄をはいて土間を歩いて行く、家の外れにある。電燈はない。暗い中でお風呂に入るのが普通であった。風呂を焚く日はまず昼間から水汲みを始める。水道はもちろんない。流しには湧水が引いて来ているのだが、溜め水にして食事に使うのもぎりぎりになることが良くあった。水が濁ると、又イノシシがぬた場にしたという状態だった。雨が降れば、ありったけのバケツを雨だれの落ちてくる場所に慌てて並べる。雨が無ければ、お滝の森まで水汲みである。500mほどあるだろう。間に境川の谷があるから、上り下りもある。子供はバケツ1個がせいぜいである。
飲み水の為に、1ヶ月も水を運んだ時もあった。風呂一杯水を運ぶのに、何時間もかかる。だからかなり汚れた水を繰り返し使うことになる。夜は真っ暗で汚れていても分らない。夕立があれば、風呂の水を変えられる。夕立が降るのを待つように、バケツを並べた。あのころは毎日夕立があったような気がする。薪集めもある。風呂を焚くのに、木小屋の良い薪は使えない。そのあたりにある生木でも、何でも拾ってきて風呂では燃やす。焚口は家の外にある。煙が出ても問題が無い。五右衛門風呂だ。火の焚口は大きい。大きな切株などそのまま放りこんでおけば、最後の人が出るまで温かい。それでも燃し木を集めるのが一仕事であった。枯れた木の片づけが風呂の炊きの仕事の一つにもなる。暮らしやすい場所とは、薪が手に入り、水があるところだと昔は言われたそうだ、足柄地域では、嫁にやるなら、内山・山田と言われたことが、その意味だそうだ。水とエネルギーは確かに自給生活でも基盤である。
風呂炊きを思い出したのは、エネルギーがいつの時代も暮らしの基本だったということだ。一年の燃料を薪で保存ずるには、6坪くらいの木小屋に一杯の薪が必要だった。その分伐採するクヌギの林は、100坪ほどだっただろうか、これを年々回してゆく。クヌギが又15年で再生し、回るとすれば、1500坪の薪の山が無ければ暮らせない。向昌院では幸いというか、山に埋もれているような状態だから、まだ近場から取れた。他の家はどうしていたのだろう。山仕事はどの家もしていたのだから、何とか家まで薪を運んだのだろう。それにしてもエネルギーの確保は、おおごとであり、山の目的は建築材としてより、薪炭材であったのだろう。それが江戸の人口を支えるためには、関東一円の里山を管理せざる得なかった。それが美しい日本を作り出していたということである。エネルギーを消費するだけではだめだ。回して行かなければ、人間は暮らせない。
二宮尊徳は目ざとく、この山のエネルギーの入札に加わり、資産を作る。山師である。この山が幾らになるかを判断して、競争入札をする。その資金をグループで集めることを考えて、人を募り、成功する。尊徳が没落しかかった百姓の出でありながら、藩の経済立て直しまで、かかわるようになるのはその理財の発想にある。利益の為に株式投資をするものが、資本主義の問題点に目を向けることはない。封建主義の矛盾に目を向けず、庶民の道徳心にだけに問題を求める。これが為政者に評価されるところだ。エネルギーも自給すべきだ。車に乗らざる得ないとすれば、その分のエネルギーを自給しなければと長年思ってきた。風力や水力も検討してみたが、結局現実的には、ソーラーパネルである。今度百坪ほどのパネルを設置する。27キロを予定している。これでエネルギーが遮断されたとしても、何とか車で移動できることになる。