裁判官の悲しみ
ジョルジュルオーの「裁判官の悲しみ」という絵を中学生の時に、確か西洋美術館に見に行った記憶がある。その後、影響を受けて、絵の具やたら盛り上げるようになった。当時ルーブル美術館展などというものを見に行っても、自分が真似ることのできるような絵がなかったのである。ルオーを見て、こういうのならやれそうだと思ったに違いない。ずるがしこくて、ろくな中学生ではない。もちろん、ルオーの絵に込められている、深い意味など全くわからなかっただろうと思う。ルオーはその頃自分の絵を燃やしてしまったということで、話題になっていた。それでも燃やさずに残したものが、日本に来た絵だと言われていた。過去の自分の絵を消し去りたいという気持ちは、誰にでもあるのではないだろうか。よくもこれほどひどいものを描いたのか、と驚くことがある。自分の中の自己顕示欲のような、悪の部分があからさまに見えることがあり、ぞっとする訳だ。そうだ、裁判官のことだった。
裁判員制度というものがある。私には絶対にやりたくない仕事だ。人を裁くなどということは、何としても避けたい。ルオーだってそう考えている。籤運が悪い方だから、当たりそうで怖い。間違って当たった時のことを考えると、全く気が重い。法律で決まっている義務だから、当たらない幸運を願うほかない。人間が人間を法によって裁くなどということはできるのだろうか。何度も吉本隆明の書いた、「今に生きる親鸞」を読んでいる。実に分りやすく書いてあるのだが、実に難解である。悪人正機ということがどう現代に生きるのだろうか。誰しも悪人である自覚が必要というような解釈ではない。善人であるとか、悪人であるとか、そういう人間の範囲分けを越えて行く先に、人間が生きる本当の世界があるということらしい。裁判官にお任せするということのどこがいけないのか。病人の治療を医者にお任せする。医師もまた辛い職業だけども、お任せするしかない。ルオーの裁判官は庶民の顔をしている。
絵を描くということは、実現できないことに向かうということである。ルオーが絵を燃やた気持ちは、ダメな絵だと気付いたからであろう。あるいは描いてはいけないことを描いていると感じたからだろう。一度よいと思い込んだ絵ですら、間違っているということがある。人間が生きる根底にある、誰しも行わなければならない仕事の一つに、農業である。誰でも人間は食べる。一次産業というのは、直接的に必要な食べ物を生産する仕事だ。人間にとって必須うの仕事だと考えている。このことから離れて、どのような仕事もないと思っている。しかし、職業ということになれば、農業でも、苦しみ悲しみから離れることはできない。農産物が商品と成り、評価され、判断され価格が付けられる。価値という観点で見れば、能力格差が生まれる。職業というもの、経済というものは、人間暮らしにとって何を意味しているのだろう。絵でいえば、職業という側面で考えれば、私には描く意味がない。
ゴッホが描いている暮れてゆく麦畑は、ゴッホの少年時代からの記憶だろう。麦畑の前で立ち尽くす少年ゴッホがありありと目に浮かんでくる。この麦畑で働き、暮らしている人間というものへの、まなざしがゴッホの絵である。人間が生きるということに伴う悲しみが、ルオーの裁判官以上にリアルである。麦畑の美しさとか、広大な地平とか、ゴッホはそういうものでなく、人間の世界へ入れてもらえない、役立たない自分という存在が、麦畑の前で立ち尽くしている。中央には麦畑に消えてゆく、ゴッホの歩むことのできなかった道が続いている。すべてを突き放したような棒のような筆触で描かれる。カラスも、雲も、麦も、道も。この無機的な感情を殺した筆触の、厳しさと辛さ。麦畑を耕す人にならなかったゴッホ。少年のゴッホの未来に飛び交うカラス。