石破発言と民主主義

   

石破氏が自身のブログの中で書いたことが新聞で取り上げられている。ブログはこれだから議員には、業務報告として義務付けるべきだ。今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。

と書いている。つまり、デモでのシュプレヒコールは本質的には、テロと同じである。と言意味だろう。言いかえれば、選挙の時の名前の連呼なども、まさにテロと同じことだ。という意味になるのだろう。確かにその一面はある。大声で、怒鳴るということは、本質的には暴力である。選挙の時に朝から迷惑だと感じる人はたくさんいるだろう。要するに、デモでも選挙の連呼でも、相手を説得しようとしていない以上、テロと同じだという論理である。問題は、特定秘密保護法案における、特定有害行為のテロの規定である。国会の議論に置いても、国民の政治的活動の自由が阻害される恐れが議論されいる中での発言である。

「テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)」(第12条)特定有害行為として、禁止しようとする法案を現在審議している中での、政権党の幹事長発言である。石破氏の頭の中では、あのうるさいシュプレヒコールもテロと同じだから、取り締まらなければならない性格のものだと、浮かんだに違いない。自分と違う考えの意見を、暴力的にがなりたてている状態に腹立たしく、つい、これはテロだ。こう頭に浮かんだのだろう。私が寝ているところで、石破でございます。石破でございます。と連呼されたら確かに頭にくる。しかし、問題は自民党の幹事長の頭にこういうことが浮かんだということだ。人間だから、腹立たしくついこういう発言をしがちなものだ。それならば、早く訂正をした方がいい。突っ張っていれば、民主主義が崩壊する。民主主義は我慢して育てるものだ。

民主主義で一番大切なことは、自由な発言と議論である。だから腹は立つが選挙の連呼も禁止されていない。民主主義に置いては、デモは意思表示として、必要なこととして、むしろ民主主義を育てるものとして奨励されてきた。それを権力者が本音ではデモはテロだ。と考えているとしたら、とても怖い事ではないか。石破氏ならいつでも、どこでも自分の発言を、広く伝えることが出来る。私も時々この人のブログは読ませてもらっている。しかし、大多数の普通に人にとって、自分の考えを伝える手段はない。ないと言って嘆いていても仕方がないので、ピースカフェ―という紙ベースの通信を出していた。しかし、それよりもブログの連携がいいというので、メンバーで約束してこうしたブログでの連携を始めた。といってもささやかなことだ。石破氏の立場とはまるで違う。特定秘密法案に反対の時の、民主的な主張法の一つとして、デモがある。やむにやまれぬ思いで、シュプレヒコールするのを、これはテロだ。という意識で受け取っていたのだ。

民主主義がいよいよ、危うくなってきている気がする。特定秘密法が不要というのではない。必要な法律だとは思う。しかし、今出てきている法案はあまりにひどい。そのひどい原因は、シュプレヒコールまで取り締まりたいという、本音がどうも背景にあるためのようだ。自由な発言というもは、権力者だけに許されていればいい。愚かな国民を上手く導いてあげる、というおごりが背景に感じられる。石破氏のあの人相の悪さは、こういう本質を含んでいたということか、と納得がいった。ギョロッと彼はいやな目つきで人をにらむ癖がある。相手を蔑んでいる気分が感じられて嫌な印象があった。しかし、日頃のブログの内容は、むしろ心の温かい人のようにも感じられた。しかし、ブログというものは続けていれば、本質がつい出る。ごまかし続けられるものではない。だんだんにその人が見えてくる。ブログを書くことが出来ない議員というものは、実は内心に選挙民に対して、嘘があると自覚しているからだ。政治家には業務日誌として義務付けるべきだと思うのだ。

 - Peace Cafe