東海村原発は廃炉すらできない。
茨城新聞によると、
国内初の商業用原発である日本原子力発電東海原発(東海村)の廃炉に向け、設備の解体作業が本格化している。関係者は技術やノウハウを、東京電力福島第1や老朽化した原発などの廃炉でも活用したいと意気込む。しかし放射性廃棄物の処分先が決まらないなど廃炉への道のりは険しく、国内で「廃止措置」の1番手として先行する東海原発の作業は、今後も難航が予想される。
原子力発電というものが、どれほど先の見通しのないものかが思い知らされる。廃炉したとしても放射性廃棄物の廃材の行き場がない。行き場が見つかるとしても、間違いなく莫大な費用となるだろう。それはすべて電力価格に反映される。そうなれば原子力エネルギーが安い費用などとは言えなくなる。こんな状態で、新設の原子力発電所も考えなければならないというのは、将来の国民を苦しめてやれという、悪意でもあるのだろう。確かにごみを考えなければ今までは安いエネルギーかもしれない。廃棄費用まで入れてないというのが、見通しのない政策だったかが分かる。これが高度成長期の思想だ。そのうち何とかなるだろう。とすべてを甘く見ていたのだ。関西電力美浜1、2号機や原電の敦賀1号機がすでに運転40年を超え、中国電力島根1号機や九州電力玄海1号機(佐賀県)なども40年が間近だ。しかし、放射性廃棄物の行き場がない。行き場がないのだから、当然廃炉もできない。
放射性廃棄物の処理場所がない原因の一つは、日本が火山国であり、地震国であることだ。大陸の淵に存在して、プレートの沈み込む上に日本列島が出来ている。これは地層が安定していないという地域が広がっているということを意味している。原子炉の設置場所ですら、活断層の近くであることが出てきている。10万年という放射性物質が安定的なものになる時間、何かが起こらないなどという確信が持てない。それが地域で暮らす人の実感なのだ。日本学術会議に置いても、放射性物質の処理方法は、将来の知見に待つしかない。こう見解を出している。今が良ければと、今の競争に勝つためにと、安物買いの銭失いになってはならない。今まで事故は絶対に起こらないと、神話の時代でも、放射性廃棄物の埋葬場所は、見つからなかったのだ。今後見つかるはずもない。福島の放射性廃棄物の行き場ですら、行くところがない。取り出し始めた燃料棒もあくまで仮置き場に置くということで、その先の行き場がない。
放射能が安全だとか、危険だとか言う論議の前に、経済性から言って、原子力エネルギーは将来世代に負担を増加させる最低の手法なのだ。今の日本社会は、すべてを付けで暮らしているようなものだ。将来世代に対して、本当に申し訳が立ない。若い人ほど、このことは怒りを持って欲しい。祖父世代や、親世代の借金暮らしの、返済だけを迫られるのだ。このままでは我々は先の見通しなく、恩恵だけ享受して、次世代に迷惑だけ残して死んでゆく。団塊世代は、戦後日本の祖父世代や親の苦労のおかげで、豊かさを享受して成長した。今度は子供や孫のすねをかじらしてもらって、老後を過ごそうというねじれた根性の世代だ。3本の矢だ。国際競争力だ。景気のいいことを言ってその場しのぎのごまかしをしていれば、どうにかなるだろう。という訳で、若い世代が全てを背負いこんでくれる。あり難い我々世代とお目出度い若者世代。
せめて、死ぬまで働き続けて、罪滅ぼしをしなければ、次の世代に申し訳が立たない。日本の歴史に、団塊世代はずうずうしく迷惑をかけ続けた最悪の世代であったと10万年間の悪証拠として、核廃棄物は記録されるのだろう。解体廃材の行き場だけでなく使用済みの核燃料が、原子炉内に溜まっている状態で、危険分散が出来ていない。原子炉の新設すれば、こんな状況が40年後には待っているのに、さらに作る気でいる政府の見通しのない姿勢では、日本をさらに行き詰まるだろう。今出来ることは、核エネルギーという文明の方角の誤りを反省し、もう少し、身の丈の暮らしを目指すことだ。国際競争力社会の行き先は、国家間の格差は当然強くなる。そして、日本の国内にも、さらに格差が広がる。負けてはならないという焦りで、核エネルギーを選択することは、墓穴を掘ることになる。