ダメでもいいじゃん。から、ダメだからいいへ

   

悪人正機という考え方を親鸞は法然から受け継ぎ、様々に語っている。とても魅力的な考え方のようではあるが、どう受け止めたらいいか、理解の難しい言葉である。簡単に考えると逆説的な考え方なのかと。悪い人だって成仏できる。良い人ならなおさら極楽に行けるという解釈である。しかし、どうも親鸞は馬鹿まじめに、正面から悪人こそ成仏できると言っているようなのだ。親鸞というのは、こんなヘンチョクリンなことを言うぐらいだから、よほどいい加減な奴なのかと思うと、そうではなくて、日本の宗教人の中では論理性抜群の、知性派である。親鸞の生きた時代、悪人としてしか生きることが出来ないほど、世の中が乱れ困難な時代だった。飢え死にをして行く人を、生きるためには何でもせざる得ない時代を見ながら、悪人正機と考えた。ダメでもいいじゃんは私の口癖である。ごく当たり前に勤勉に、真面目に暮らそうとして、適当にダメだからである。ダメぐらいじゃなけれべやってゆけない時代だ。居直って悪人だという自覚の立場に立てれば、これは楽だろうとは思う。

だからといって、悪人と自覚するほど突き詰めて生きている訳でもない。要するにあいまいで、行ったり来たりで、その日暮しである。人間そんな程度のもので、悪人には到底なりきれないが、善にとは到底言えないのが普通人である。普通が一番なのだが、普通で収まらない時に、ダメでもいいじゃん。と吐息をつく訳だ。最近も又、約束を忘れてしまった。情けなく申し訳ないのだが、こういう頻度が増してきている。その場でやらなくてはならないことが出てくると、ついつい他のことを思い出さなくなった。ひどい状態になっている。目の前のカレンダーに書いてあるのだが、全く意味なくダメだ。色々の約束事に自信が無くなっている。その意味もあって、業としての養鶏を止めることにした。食べ物を作る責任を持てなくなりそうだ。何かとんでもないことをやらかす前に止めなければ怖い。農の会の当番の定例会を忘れたり、水彩人の同人会議も忘れてしまった。アルツハイマーという気もしないのだが、ひどいことになっていることは確かだ。責任のある約束事をともかく減らす。来年一年の自治会長は引き受けた以上やりきるしかないが、怖くなる。

浄土教でいう悪人というのは、人間すべてをさしているという考え方がある。確かに近代的な解釈論である。このように分析してしまえば、悪人正機説も実に常識論になる。人間はすべからく悪を内在している。その悪に気付くということが大切で、悪の自覚のあるものこそ、極楽浄土の行けるという考え方である。悪を自覚すれば、悪事を侵さないという、常識論である。一つの考え方であるとは思うが、親鸞の言わんとするところとははるかに違う。もう一つあるのが、悪とする価値観の巾である。何を善悪とするかは仏という宇宙の絶対から見れば、皆一緒のことだという視点もある。確かなところはわからないが、どうも親鸞はそういう、まともなことを言ったのではないと直感する。善人もいれば、悪人もいる。そして悪人の方が生きるという真実に迫り、まだ増しだ。こういうとんでもないことを含んでいる、と思われる。ここがややこしいのだと思う。

吉本隆明氏の「今に生きる親鸞」を読むとその辺の分りにくいことがある程度分かるように書かれている。この分りにくいが、一番大切な部分を、少しでも明確にしようと書いている。という方が正しい読み方かもしれない。悪人正機が努力して少しでも良くなろうという、努力を妨げないかということがある。大切なことをすぐ忘れてしまう気休めに使っていてはだめだろう。忘れない方がいいに決まっている。人間自分には甘く、他人には厳しく要求をしてしまう。良いことをすれば、浄土に行けるという、安易な考えだけはするな。自分の感じたままに行動すればいい。行為に善であるというような意識を持てば、自分という人間の奥底に至る為の、障害になる。というように、吉本氏は親鸞を解釈しているようだ。

 -