水彩画のバルール

   

絵画にとても大切にされている見方に、バルールというものがある。色価と、色の価値と日本では何故か名ずけられている。フランス語のValeurに対応する英語ではValueである。何故このことが大切かと言えば、西洋における、個人主義の確立と関連しているからではないか。画面という空間を作者の頭の中では、どのように見ているかの問題だからだ。画面が作者の思想、哲学を反映していて、その空間を示すことが絵画の目的となる。空間さえ示すことが出来れば、哲学が示せるということのように、抽象画が生まれる道である。どういう絵画においても、自分の脳の中の空間意識を画面上に表そうとすることになる。この作業をまともに行えていれば、バルールがくるっているということはあり得ないことなのだ。つまり頭の中に空間が出来上がっていれば、言いかえれば、明確な思想があるのであれば、バルールが狂うというようなことは、ありえないことのはずになる。それくらい、論理の一貫性を求めたものが、バルールである。つまり、価値観の確立という言葉の方が分かりやすいのだが、一応、それを色価という言葉にしたところが、なかなか含みのある巧みな訳語である。

水彩画に置いても、当然バルールということは重要なことなのだが、実はこの点について材料から来るのか、曖昧なところが、いまだ水彩画の弱点になっている。理由は水彩に置いて、バルールを整えるということが、油彩画より困難なことに起因している。水彩画では一度置いたことと、2度描きしたことでは、意味も違ってくる。これが絵が哲学であるという意味なのだが。2度塗りでバルールは落ちることになる。暗く成り、彩度も落ちることになる。だから、修正が難しいことになる点では、色のない書や墨絵と同じである。色価の問題が、頭の中で的確でなければ、自由な筆さばきが出来ないのは当然のことである。これが水彩画の難しさなのだ。そこで淡彩と呼ばれる、一度塗りの薄い絵画と、ほぼ油絵という水彩画に分かれる。水彩は、技法が無いようで、実は高度に技術的な側面がある。小学生でも描くのだが、水彩画家と称する人でも、ほとんどの場合この水彩の本質には至ることができないでいる。

先日、偶然に銀座の大通りにある画廊で、浅井忠氏の「花筐の栗」という水彩を見た。すごい技術でびっくりした。今だこの人を越えた人はいないと思った。油彩画のベラスケスに位置する絵だ。他の絵はそれほどでもなかったのだが。つまり、水彩技法の背景にバルールに関して確かな力量を確立している。つまり頭の中が絵画的な意味で明確になっている。その明確な上で、一筆、一筆を確実に置いている。その為に、色がその位置に揺るがなく置かれることになる。その一筆の集積が、一枚の画面になっている。水彩画は基本画面の上で修正するようなものではない。それは書の場合に近い。鉛筆による、下書きも止めるべきだ。それも書の場合と同じだ。それでいて色が的確な位置と量で入っている必要がある。

中国画が墨絵に着色したような、バルールの狂いが、というか、色価に意識の無い理由は、近代絵画に開眼していないためである。個人の確立が無い。一方日本では早い時代に目が開かれたのかと驚異的なことになる。江戸時代の絵画思想の深さが思われる。この空間意識というものの変化こそ、近代的自我と関連している。つまり江戸時代にも個人というものの確立が日本なりにあったと考えられる。水彩画では明確な絵の骨格が、描き出す前に成立していなければならない。何をどう描くとしても、大きな骨組が無ければ、空間は作り出せない。あとは下描きもなく、一筆を的確に置く。こういう類まれな技量が無くては、本当の水彩画は描けないものだ。出来上がるものは実に柔らかなものになるが、本質はなかなか奥深いものとなる。これが「私絵画」と水彩画のつながりである。近代的自我の確立は、疎外ということが待っている。社会の中での芸術の交流の不能。それそれの世界観になり、互いに途絶した状態。全体性の欠如から、一部での世界の共有。この点はまた書いてみる。

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