水彩画における筆触
水彩画は、水墨画に一番近いのだと考えている。西洋のもので油彩画に近いと考えたら間違う。色のある水墨と言えば、中国画ということになる。現代の中国絵画は、とんでもない代物だが、古い時代には素晴らしいものがある。原因は現代の中国紙では色が出ない事が大きい。日本の水彩画も、現在の中国画をとても笑えない状況だと思っている。その理由は色彩というものの手ごわさである。色彩というものは哲学的な抽象世界であり、音楽に近い。説明的、意味的な、線の世界とは別物なのだ。話がどんどん離れてしまうが、アニメと漫画の違いである。何故、童話の絵が絵画ではないか。岩谷ちひろの少女像は良く出来ているが、絵画ではない。同時に、はやりのジブリ映画の絵はもおもちゃだと思う。文学的であるとしても人間あんな単純なものではない。ジブリ映画自体は見たことがないので、分らないのだが、あの絵をみると見に行く気に成れないのだ。
筆触の意味を書きたかったのだ。筆触というものは作られたものだ。現実の事物には線はない。筆触もない。だから、子供の描く人間像は、へのへのもへ字が人の顔になるが、それは記号であり、顔という漢字と変わらない。気付いてしまうと、子でも輪郭線というものはおかしなものになる。江戸時代の庶民は、オランダの婦人像の影を見て痣があるように見えたということだ。そもそも影も、線も移ろうもので、一応の合意に基づく手段に過ぎない。本来ない物をあることにした説明なのだ。その極端な例が、書ということになる。「土」一文字を書いて、作品にすることもできる。そこには土という意味と、墨の表わす微妙な筆使いで、書く人の人格を残し伝えようとする。私の見たいのは、坂本竜馬の字であり、代書屋さんの字を味わいたいとは思わない。この筆跡というものは、鉛筆や、ペンでも筆跡鑑定というものがあるように、筆の跡となればそれこそ指紋に匹敵するほど多様なことになる。その多様さの中に、伝達をしてきた世界が、日本の芸術の中にはある。
こうしてた歴史を踏まえて、筆触に敏感であるのは、東洋人の特徴でないかと思う。自分の感じている物を筆の調子に乗せることが出来るような気がしている。これは水墨画と、書の伝統からきている。西洋の伝統的絵画では、筆跡は消してしまう技法が多い。もちろんベラスケスやゴヤのように見事な筆使いで表現している絵画もある。しかし、これらの絵に置いても、筆の調子の中に作者の精神を乗り移らせようとしている訳ではない。あくまで、表現法の一つとしての筆使いである。日本人的にいえばのことであるが、モネやスーラーの筆使いをみると、案外下手なものである。たぶん日本人が求めるような筆触で語らせるということは、嫌っているのではないかと思う。そういう意味ではボナールあたりから筆触の意味が意識されているのではないだろうか。ボナールの筆触は様々なことを語ろうとしている。実に日本人的だと思う。相当に日本の絵画から学んだのではないかと思う。特にボナールの水彩になると、筆触の意味を完全に把握している。書でも、水墨画でも筆触を大切にしているから、墨一色なのだ。ところがボナールはこの困難さを見事に乗り越えている。
線で微妙に感情や意味や哲学を伝えようとして、その複雑の中に色彩というものまで登場すれば、複雑化しすぎて訳のわからない物になる。そこで水墨という、色彩の意味を捨てて、墨絵的な水彩になってしまう他ない。しかし、水彩画が「私絵画」に置いて可能性を開けるのは、この複雑化の部分にある。この厄介で手に負えないことが出来るのは、水彩画だけだと思う。土の横棒を引くときに、大地の地平線を感ずる。そして大きく立ちあがっる植物のような生命力を書く。そういうことを絵画に置いて行おうとすれば、水彩以外に方法が無い。絵画に置いてということは、眼前にある具体的なものや、頭の中にある世界を描こうとしながらも、「土」という字の意味のようなものを併せて、表現しようとすれば、筆触と色彩という複雑な組み合わせに、入り込んでゆくほかないということになる。それを人に伝えるというより、自分が確認したいのだ。