JR北海道の問題
JR北海道で、貨物列車の脱線事故に始まり、安全思想からいえば信じられないような、杜撰なことが行われていることが分かってきた。原因ははっきりしている。儲からない赤字体質の会社が国の補助金で運営されていれば、精神が緩んでゆくということになる。旧国鉄が会社が分割され、企業として再出発した。しかし、JR北海道は赤字から抜け出せない路線ばかりを抱えている。国も鉄道業の、公共性から補助金を入れている。そんな赤字の地域に競争する鉄道会社などあり様もない。頑張ってやっても儲かるはずもないし。その穴埋めはどうせ、補助金である。やる気のない職場になっていることは、間違いないだろう。人命にかかわる仕事なのだから、緊張を持って取り組めと精神論などではどうにもならないことだ。職場の空気も相当に悪いのだろう。努力しても無駄な仕事、こういう仕事にただ給与の為に働いていれば、人間自体がおかしくなる。
何の為の仕事か、どこに向かって努力しているのか。そういうところから見直さなければだめだろう。これはどの分野でも同じである。農業分野もこれでだめになった。田んぼを作付しなければお金がもらえる。それは稲作日本一の人も、日曜農家も同じである。努力しても意味がない。むしろ止めてもらいたい。こう言われているような農業がダメになったのは、当然のことだった。電力事業も似たような体質のものだ。原子力発電と経営の関係はどうなっているのだろう。相変わらず、原子力発電を再開しないと、電気料金は値上げになるとばかり発言している。放射性廃棄物の処理、原子炉を廃炉にする費用。こうしたものは電気料金に見込んでいない。だから、今廃炉することになれば、莫大な費用が必要になる。つまり、どうにもならない展望のない原子炉再開である。これも、経営と原子力発電を企業自体が判断できなかったところに、問題がある。
企業としての経営と、国策との関係。そこに莫大な税金が注ぎ込まれる性格の企業。こうしたあり方が、企業の精神を崩壊させてゆく。健全な経営精神が育ちようがないものになる。では競争があれば何でも良くなるのかと言えばそれも違う。その仕事が楽しく、好きでやっている。これが基本ではないだろうか。つまり、人間はやりがいがある仕事をしなければだめになる。どういう体制であれば、あらゆる仕事が張り合いのあるものになるかが、政治なのだろう。監督して、指導してとそういう監視をいくら強化しても、却って悪い空気の職場になる。部落の普請という共同作業は、それぞれが自分の能力を発揮し、楽しく、やりがいを持って行われた。それが、給与で行われることになれば、監視される仕事に変わり、負担感のある、ごまかせるものなら見えないところでごまかそうというような仕事になる。
すべての原因は資本主義の矛盾にあるのだろう。資本主義が煮詰まれば煮詰まるほど、矛盾が増大するということは、マルクスが予見したとおりだ。それをどのように修正できるのかが、政治の課題となっている。あまちゃんでは三陸北リアス鉄道の再建が取り組まれていた。鉄道というものが地域社会の、絆のようなものだ。採算とか、仕事であるとか、そういうことを越えた理念があるのでは、と投げかけていると思う。私も同感である。しかし、税金で負担しなければ、営業が出来ない仕事を、どういう誇りとやりがいで支えてゆけるかなのだろう。JR北海道にも、優秀で立派な鉄道マンが沢山いるのだと思う。それが何かが狂いだすと、こういう信じがたいような事態になる。政府は他人事のように、監督を強めるとしているが、判断がおかしい。もっと深刻な原因は、鉄道事業の将来の方向を示すことのできない、政治の責任である。