水彩人ワークショップ
水彩人ワークショップでは、水彩の話をさせてもらった。上手く話せるはずもないのだが、帰り際に、ブログで読んでいた印象とだいぶ違うと言われた。ブログではとても人当たりの悪い印象があるようだ。そういうつもりもないのだが、文章が下手なのだろう。「私的絵画」の話をした。次の時代の絵のことである。絵画芸術というものは私化することで、意味を持つのではないかという見方である。まあ、40分だから、話がダイジェストになってしまい、肝心なところが伝わったのかどうか心配ではある。絵画というものが、描かれ役立つものになる。という時代が終わったということである。このことも話したかったのだが、話せなかった。○○の為の絵画の時代はとうに終わって、自分の表現としての絵画になった。そして、様々な方法が登場し、絵画が芸術表現としての意味を失う。直接には社会的意味のないものをどう考えればいいのかという、不思議。
商品絵画の時代ということには、異論はないだろう。一般の投棄の対象に、株と変わらない感覚で絵が取り扱われる時代。商品価値があるものが意味ある絵画。クールJapanの問題。訳のわからない、稲田行革相が「ゴスロリ」、に着飾って、フランスに売り込むのだそうだ。誰のアイデアだか知らないが、電通的である。不気味なことだ。金になれば何でも売りこむノがクールJapanのようだ。国際競争力のある芸術もいいけれど、この背景をよく考えて置く必要がある。農業と同じに考えれば見えてくる。国際競争力のある農産物の強調は、競争力のない農業は趣味の農業だから、消費者と位置付けるということになる。国際競争力のない絵画は、価値のないものだという時代が見えてきている。国家による文化の方向付けの可能性を感じる。国際競争力のある、金になる絵描きには補助金を出して、大いに活動してもらうなどと言いださないか。
趣味と位置付けられる膨大な絵画の意味。この中にこそ、現代社会における、芸術の意味が隠されている。描かれた絵を問題にするのでなく、描くという行為が重要なのだ。絵を描くということに、人間の解放があり、精神の高揚や深まりがある。それこそ芸術のはずだ。その出来上がった絵を問題にする必要のない描き方。そうした絵の描き方を私絵画と呼びたい。会津の方の牧師さんで生涯水彩画を描いた人がいる。その方は、絵を発表することがなかった。絵を描くことを見られるのも嫌で、夜の間に街に出て町の風景を電柱の明りの下で描く。この人にとって絵を描くことはとても重要なことであったのだが、作品としての絵は存在しない。20年前位にその話をゆうじん画廊をやっていた和田さんから聞いて、衝撃を受けた。絵は存在しないのだが、絵を描くという行為がある。水彩画であったそうだ。
水彩は内的なものを表現することに優れている。自分の心と向かいあうことになる。私的絵画に置いては、水彩であることが意味を持つはずだ。心の中に湧きあがる姿が、水彩的な人が多数のはずだ。ワークショップでは笹村の考え方を精神主義と受け止められた方が居たようだ。それもだいぶ違う、あくまで個人的な問題として絵を考えた方がいい。自分の何かを人に伝えるための方法と考えない方がいい。こういうことが言いたかったのだ。水彩人展の絵を見ていると、作者の人間が確かに見えてくる。しかし、そういうことも副産物であり、大切なことは、作品より描くということその行為に意味がある。出来たものが立派で価値あるものでありたいという野望は、実現できない時代なのだ。だからその道に入り込むと、滅ぼされることになる。下手をするとクールJapanの一翼を担うことになりかねない。改めて書いてみても、言いたいことが言えない。まだ考えていることがあいまいなのかもしれない。ワークショップではよい勉強をした。人に話すということで、考えが整理できた。又こういう機会を作りたいと思う。46名という大勢の参加された方にお礼をしたい。